跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/02 BGM: 砂原良徳 - My love is like a red, red rose

今日は早番だった。仕事をして、昼休みに詩を書く。仕事が終わったあと、読みかけていた若松英輔『詩と出会う 詩と生きる』を読み終える。この本の中で若松英輔は――どうしてもぼくなりの無粋な表現で言い表すことになってしまうのだけれど――「何らかの大きなものとつながること」「大いなるものに触れること」を薦めているように映る。自分より大きなもの。それはつまりぼくがこうして見ている眼前の世界であったり、詩なら詩というジャンルの豊富/肥沃な過去の遺産であったり、あるいはこの世界に偏在するさまざまな現象(端的に言えば「死ぬこと」や「人生そのもの」だ)であったりする……と、むずかしい表現になってしまったがそんなふうに「自分を超えたものを認識することを試みること」「言葉を超えたものを言葉によって捉えようとすること」を薦めているように見えたのだ。それはある意味では胡散臭い、オカルティズム的な発想にも見える。いや、オカルトがどうだとか言わなくても単純に「そんな風に『言葉を超えたものとつながる』と考えることは、『この自分自身』がそうした大いなるものに触れて『なくなってしまう』『消え失せてしまう』という意味で危険な発想ではないか」とも言えるのではないかとも思う。過去のぼくならそう一刀両断式に切り捨てていただろう。

でも、いまは少し違う考えを持っている。「この自分自身が消え失せてしまうこと」「大いなるものに触れて自分が失われること」を危険思想と断じるその一歩手前で、ふと「そんなに自分自身とはたいしたものだろうか」と捉えてみたいとも思うのだ。いや、結論から言えば「自分は自分」であり「自分の主体性を失いたくない」と思う。のだけれど、一方では「そうした『自分自身』とはそんな『確固としたもの』『固まったもの』ではなく、外部に触れることや外部から刺激されることによってどのようにでも変容しうる『液状のもの』『可塑的なもの』であり、したがって取り扱いを繊細に行わなければならない危険なものだが同時に『可能性を秘めたもの』『ワンダフルなもの』でもありうる」とも思ってしまうのだ。そのような『変わるもの』『移ろうもの』としての自分自身を生きるということを直視した上で、だからこそ『自分を生きるということ』『自分に忠実に生きるということ』のむずかしさをわかった上で、でも生きるということ……そこまで考えないと若松英輔のテクストの危険性と可能性を掘り出せないと思った。そして過去のぼくはここまで考えず、浅田彰などを聞きかじった(「読んだ」ではないです)頭で若松英輔などを「愚論だ」と切り捨てていただろうと思う。まあ、ひと口で言えばアホだったということだ。

自己を超えた「大いなるもの」がこの世にあり得る……それはぼくはわかる。ぼくは全知全能でもなければ博覧強記でもあり得ないので、知らないことやわかっていないことは山のようにある。既知のものと思っていることだって掘り出していくとわからないことばかりだ(たとえば、「どうしてぼくは仕事をするとお金をもらえるのか」や「どうして運転免許証やネームカードを見せればぼくがぼくであることを証明できるのか」をまったく説明できない。思えば「なぜ空が青いのか」だって説明できないくらいだ)。そうした不可解な事実を「そういうものだから」と納得して生きるのも1つの生き方である。それはもちろん、なんら異常な生き方ではない。だけどぼくのような発達障害者、もしくは哲学病患者(とは中島義道の言葉だが)はそうした不可解な事実の前でつまずく。そして、若松英輔はここまで言っていないのでぼくの誤読もしくは妄想ということになるのだけれど「そこから詩が始まる」ということでもあるのかなとも思う。というか、ぼくが詩を書く理由はそういう幼稚極まりない疑問を問いたいから、発したいと思ってしまうからなのである……とまた話がヘンな方向に向かってしまったが、そうした「なぜ?」を考えることを通して「大いなるもの」である世界の神秘に触れ続けることがぼくの詩作の動機なのかなとも思った。

若松英輔のテクストと対峙するということはしたがって、ぼくなりにそうして噛み砕く/咀嚼するなら(もちろん、誰のテクストにしたって「丸呑み」「鵜呑み」にすることは危険なのだが)世界の神秘の前に謙虚になること、そして同時に自分自身の内側から生まれくる「なぜ?」という疑問に鋭敏/敏感になることかなと思ったのだった。そしてこれもまた誤読/妄想になるのだけれど、若松英輔もまたそうした鋭敏な感性で詩を読み、作品を書く人なのではないかと思った。また話が飛んでしまうけれど、ぼくの生活だってそんな風に考えていけば謎ばかり。なぜぼくは根気強く1つのことをやり続けられないのか……裏返せばなぜある方法を見つけてそれが腑に落ちると続いてしまうということが起こるのか。最近、ぼくは自分の金遣いの荒さに絶望してしまい(衝動買いで『現代詩手帖』を買ってしまったりしたので!)家計簿をつけ始めた。ただの金銭出納帳と捉えて事務的にお金の使い道を記帳するだけでは続かないので、荒いメモを書いてミクロな日記として扱っている。そうすると続くようだ。これだって、ぼく自身の主観からするとまったくもって「なんでだろう~」なのである。そう考えていくとぼくは「(たぶん)この世でいちばんアホな人間」と言っても差し支えないのではないかなとも思ってしまった。