跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/04/12 BGM: John Lennon - Imagine

今朝、Zoomで毎朝恒例の英会話関係のグループのミーティングを楽しむ。今朝の話題は就職活動や転職における面接(インタビュー)についてだった。アメリカ在住の方が興味深いお話を聞かせて下さった。彼女によれば、いま企業側(具体的には人事担当者など)は相手に立ち入ったプライベートなことを訊いてはならないのだそうだ。たとえば「将来結婚するつもりですか」とか「子どもを育てるつもりですか」といったようなことだ。その後、話題は日本の就職・転職活動の環境について及ぶ。少なくとも日本では、男女の間にある不平等から生まれるさまざまな現象にいまだ耐えなければならないみたいだ。

こうした話題について、ある明白なぼくにまつわる事実を無視して語ることはできないだろうと思い、そして振り返ってしまう――ぼくは男であり異性愛者なので、女性に(性愛面で)惹かれてしまうのだった。この観点に立つと、さまざまなことがらが隠れてしまう。具体的に言えば、ぼくは夜1人で出歩くことができる(いままでそんなに危険な目に遭ったことはない。あったとしてもトラウマになるほどくっきりしたものではない)。でも、ぼくがもし女性だったら話は違っていたかもしれない。ストリートを夜に1人で出歩いたり、コンビニで1人で買い物したりできるだろうか。

これらについてこんなふうにつらつら考えていくと、基本的な地点に立ち戻らざるをえない。多分にぼくは男だからという理由で、痴漢やその他の変質者がもたらす性犯罪から自由に生きられたのかなあ、と。それ以外に、ことによるとこのぼくの人生の質(QOL)自体ももしかしたら女性のそれより上とさえ言えるのかもしれない……というのは暴言・愚論だろうか。「この性別のせいで」そうである、と言いたいのだけれど(あるいはぼくの股間に存在するこの器官のせいでそうである、とも)。ハタチ頃、大学生だった頃にぼくはそれこそ雨後の筍のようにボコボコ刊行されていた哲学書を読み漁り、そこに書かれていた「人はいろんなアイデンティティを持ちうる」とか「アイデンティティセクシャリティは捨てられる」とか書かれていた意見に感化されたことを思い出す。

午後、そんな考えを引きずりつつ図書館に行き上野千鶴子の『発情装置』を借りる。もちろん泣く子も黙るフェミニストであり社会学者の彼女だが、読まず嫌いが嵩じて1冊たりとも読んだことがなかったのだった。悪名高き人でもあるのでそれで「読まなくてもいいか」と自分の怠慢に甘えきってしまったとも言える。まずこの本から謙虚に読み、フェミニズムがこの社会とどう手を合わせて(あるいは時代に先行するかたちで)発展してきたか学ぼうと思った。

夜、高橋源一郎の巨編『DJヒロヒト』を第4章冒頭まで読む。こんなことを考えさせられた。いままで信じてきたイデオロギー(主義主張)は何だったんだろう。ぼくの考えの芯にあるものは? いったいどうしていままで生きてこられたのか? 捨てられないもの・失くせないものは? ああ、もうここまででダラダラ書きすぎたのでこのあたりで筆を置いてしまうことにしたい。