跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/04/21 BGM: Depeche Mode - Master and Servant

今週のお題「お弁当」
今朝、毎月恒例の発達障害を考えるオンラインミーティングに参加する。思い出すに、ぼくたちはこのミーティングを9年ほど前に始めたのではなかったか。その後、オフラインでやってた頃は料理を試みたり散策したり、あるいはおのおのの関心あることや仕事などでの成果を紹介したりしあったのだった。今日はぼくは、R・D・レイン『好き? 好き? 大好き?』についてぼくの思い出とからめて紹介した。他のメンバーはそれぞれの仕事について話してくれた。

午後にイオンで弁当を食べたあと、本腰を入れて上野千鶴子の本を読まねばと思い『女ぎらい』を読む。ぼくは今年で49になる。なので学生時代なんて「遠くなりにけり」な話なのだが、でもこの本の文字通り「歯に衣着せぬ」論理的でまっすぐに男たちを批判するメッセージ、とりわけ若い「性的弱者」に向けられたメッセージは深くぼくの心を打つというかえぐる。上野は本書で、この社会が「男」でできていると語る(そこでは女性たちは人格を持たない「モノ」だ)。言い換えれば、社会とは「ミソジニー(女性嫌い)」で「ホモソーシャル(男の付き合い)」の性質を帯びており、女性を対等のメンバーとして受け付けない。もちろん、男たちは女性を必要とする。セックスやラブの対象として。でも上野は、そんな状況はつまりは「男が女抜きで世界を制覇する」事実の産物なのだ、と言う。

先にも書いたとおり、実にこのぼくを打つ、正直で生真面目なメッセージだとぼくはこの本の主張を読む。でもぼくはたぶんにこの発達障害でスットコドッコイなキャラクターもあってか、そんな「ミソジニー」な社会からもはじかれて生きてきたのだと異論をはさみたくもなる。そんな「ホモソーシャル」な社会の一員になれる資格はあったのだろうが(いちおう「男」なのだから)、でもいじめられて結局おみそにされて終わった。そんな男臭い社会の中でさえぼくははぐれてしまっていたのだった。いや、だからといってぼくの言うことが正しいわけではないだろう。でも、言えることはそんな「女ぎらい」社会はぼくさえも抑圧したということだ。いまだって。

思えば上野のその本のみならず、これまでそれなりにフェミニストの書いたもの・達成に触れてきたなと思う。そこからたしかに、ボンクラなぼくなりに学んだこともあった(彼女たちの達成はたしかに、この性別あるいはセクシャリティにあぐらをかいていては見えない世界の実態を説いてくれたのだった)。でも、まだ共感を真に・肚から持つことはむずかしい。この社会において、それこそどこまでも「弱者」と自認させられる存在として、「では」どうすればいいのだろう。もちろんそんなことを言うこの頑固で無知なぼく自身がこの「男臭い」「女ぎらい」な社会の成員として日々せっせと社会を作り上げてきた、いわば「加担者」でありうるという事実は無視できないにしても。

だからこの日記の終わりに、記して〆の言葉としたい。そう、この社会はたしかに上野が書くように「ミソジニー」な様相を呈している。でも、その社会はたしかにその暴力的で有害な性質でこのぼくをも痛めつけている。いや、だからといってぼくは逆立ちしたってフェミニストにはなれっこないにしても。