そして今朝、ぼくたちは月に1度の「発達障害を考える会」のミーティングを行った。今回はぼく自身がホスト(司会)の役目をおおせつかったので仕切ることとなる。タイムテーブルを1枚の紙にまとめたのだけれど、ミーティングが始まったらすぐにぼくは自分がほぼすべてをそこにおいて、責任ある態度で仕切らないといけないことに気づき唖然とする。いま、誰の意見が求められているか。何分間、何秒間が残り時間として残っているか。他のメンバーにあらたな会話の切り口として提示できる話題は何だろうか、などなど。
実を言えば今回、この仕切るたぐいのホストをこなしたのは初めてのことだった。だからとても難しかった(いや、ほかのメンバーが充分に助けてくださったのだけれど)しかし、英語を話すときと同じ感じになる。ヤマカン頼りで、インスピレーション(ひらめき)に語らせる。いや、おかしな話に聞こえると思うけれどしばしばぼくは英語を話す際は「そいつ」が話していると思うことがある。「そいつ」とは心と身体のコネクションのあいだにある何かの存在だ。脳ではない。
ミーティングの席では、ぼく自身も他のメンバーに木曜日に別の会合で行ったストーリー/プレゼンについてを教えた。他のメンバーがぼくに正直に意見を言ってくださった。それぞれのメンバーに意見を自由闊達に言えるように気を配れて、機会を与えられただろうか。ああ、実に神経質になる体験だった。でも、楽しめたことも確か。ありがとうございます。
ミーティング後、イオンに行き昼食を摂る。その後佐伯一麦『杜の日記帖』を読み始める。これはタイトルが示すように著者の日記である(やっとやらなければならないタスクから解放されたのだな、と思ってしまった)。ふと、ささやかな喜びとしていろんな本の表紙を写真として撮ってシェアするのはどうかと思った。そうした本の表紙とはアートワーク(ささやかな芸術作品)の精華にほかならないと思ってしまったからだ。