実を言うと今日は職場に中学生の生徒が学校での授業の一環として来訪され、一員として作業を手伝ってくださった(「トライやる・ウィーク」というやつだ)。だから、今日はその彼に指示をしなくてはならずこんなぼくでも遠慮してしまう。いつもなら気ままに・実にのびのびと働くのだけれど今日はそんなわけにもいかず彼のことを意識する。どんな説明、どんな指示が彼にとってわかりやすいだろうか、伝わるだろうか……それを見つけ出して、コトバにして彼に適切に伝えるのは実に骨が折れる(いやもちろん、ぼくの同僚・上司はこんなことを日々「あたりまえ」のこととしてこなしているのだから凄いことだ)。これまで日記にも書いてきたけれど、ぼくはずっとわかるわけがないウィトゲンシュタインの言葉やコミュニケーションに関する哲学を読みあさってきた。こんな状況に立ち会ってしまうとぼくは彼の哲学が決して「机上の空論」なんかではない、まさに「ホットな」「生々しい」ものだとわかる。ウィトゲンシュタインも生活の現場、職場や家庭でこんな行き違いを経験してそこからあんな哲学を練り上げたのかなあ、と妄想がふくらむ。
今日から、町のある施設で行われている英会話教室のシーズンが始まる(全8回のレッスンを経験する段取りとなっている)。仕事前に友だちにこのことを話したら、Discordである人に「でも、あなたの英語はもううまいじゃん」と言われてしまった。もちろんとてもありがたいというか光栄この上ない言葉だったのだけれど、でもそんな言葉に出くわしあらためて「じゃ、なんでよりによって英語なんか学ぶんだろう」とも考えてしまう。とりわけこの小国、日常的な次元ではめったに使うことのない英語なんてものを……ご存知のとおり、この問いに出くわすとぼくはその時々にまったく別の・矛盾した答えを出してしまう。「世界中に友だちを作りたい」とか「『ロリータ』や『1984』といった英語圏(引いては世界レベル)の傑作群を英語で読みたい」とか。ここだけの話、もっと「どす黒い」理由もあることだって告白する。
いま、ぼくが思うのは1989年のまさに6月4日に中国で六四天安門事件が起きたということだ。いやもちろんそれとこれとは別で、英語を学ぶぼくの試みとあの事件に直接的な関係なんてものはこれっぽっちもない。でも、数年前から(自分でもなんでなのかまったくもって思い出せないが)、DiscordやWeChat(微信)といったメディアで英語を介していろんなことを話すことを楽しむようになったのは一因と言えるかもしれない。村上春樹や、文字どおり(さっきも書いた)「どす黒い」話題などだ。世界に引かれている国境線・境界線を超えて、この国の外部に広がるリアリティを知り、同時にこの国自身の内部に存在するリアリティをも(鏡を通して自分の姿を確認するように)見つめるようになった。
夜になり、お待ちかねの英会話教室に赴く。そこで、友だちと再会したり新しい方と出会ったりして会話に花を咲かせる(彼らが快活な笑顔を浮かべておられたのが印象深い)。学校や職場ではぼくたちは義務やタスクをこなすことを考えないといけない。行儀よく振る舞う必要もあろう。でも、こんなリラックスしたシチュエーションでは心を開く試みも許されよう。心を開き、未知に自分を投げ出す(よく知らないけど、なんだかサルトルの哲学みたいだ)……そんな試みを楽しいと思ってしまうからこそ、ぼくは英語を学びこうしてコミュニケーションを楽しむのかなと思った。