跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/10 BGM: Blur - Tender

今日は休みだった。朝、いつも通り近所のイオンに行きそこのフードコートで柄谷行人漱石論集成』を読む。前に書いたことをなぞるけれど、ぼくは夏目漱石は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』『夢十夜』くらいしか知らない。なので、今回の柄谷の本から刺激を受けてまだ読めていない漱石を読んでみたいと思った。これはぼくの欠点あるいは限界だとも思うのだけれど、ぼくは何を読むにしても自分が関心があることがらについて引き付ける読み方しかできないので柄谷の本を読んでもなかなかカントやフロイトを読もうという気になれない。「気が向けば」「関心が高まれば」読む。でも、「読め」「必読書だ」と言われたら「そこまで言う?」「何様だ」と反発してしまう。まったくもってガキだなあと我ながら恥ずかしくなるのだけど……閑話休題。ぼくがそんな「我田引水」「独りよがり」な読み方から読み取ったのは、柄谷の問題設定として「ぼくとは誰なのか」「この主観と外部」といった哲学的なことがらがシンプルに問われているのかな、ということだった。この読みが正しいなら、それはぼくが子どもの頃からずっと考えてきたことであり、大人になってもウィトゲンシュタインを読んでみたりしてそれこそ「独りよがり」に考えてきたことだ……そんなことを考えて、そして前に読みかけて挫折した『彼岸過迄』を図書館で借りたのだった。

フードコートでこれまたいつも通り、そんなアイデアを英語のメモにしたためていたら話しかけられてしまった。「あんた、この英語読めるの?」と訊かれて「いや、ぼくが書いたので……」という話になった。「勉強してるのかい?」と訊かれて、「いや、家にいてもゲームもしないし、別にやることもないんです」と話す。こういうことは前にもあって、ぼくはどうやら哲学や英語を「学んでいる」と思われているらしい。いや、事実ではあるかもしれないけれど同時にそれは「苦行」「修行」というわけでもなく、「楽しい」とも思ってやっていることでもある。上に書いた柄谷や漱石といった書き手の哲学書や文学書を読むことや、英語を学ぶことはそうして「楽しいこと」「自分自身を知ること」とつながっている。それは「人と比べてどうこう」とかいう話ではなく、「自分の中で満ち足りたことがら」として存在する。「楽しければいい」「しっくりくればいい」と。だから極論を言えば、ぼくの主観としては日々「可能な限り『遊んで』暮らしている」ようなものだ。そうして「自足」「自己満足」を第一に置く生き方、「独りよがり」を貫く生き方を選ぶようになってからぼくはずいぶんのびのびと自分らしく、糸が切れたタコのように生きているとも思う。そんなアラフィフである。

午後、野矢茂樹植田真『はじめて考えるときのように』を読む。そこで、あらためて「考えるということ」の謎を考える。いつも書いているとおり、ぼくは「病的に飽きっぽい」わりに「ハマったことはしつこく続ける」困ったところがある。これを別の言い方でいえば「記憶や関心に異常な濃淡(ムラっけ)がある」ということになる。大事な約束事や人と会った記憶でさえも「うっかりして」「バタバタして」ど忘れしてしまう、なんてことはそれこそ日常茶飯事なのである。だけど、日常のコミュニケーションの席に持っていくと「いや、今日は『朝からずっと』柄谷行人を読んでました」なんて言ってしまったりする。だけど厳密さを突き詰めていくと「じゃあんた、『ずっと』柄谷行人を読んでたんだな? その間トイレに行ったり水飲んだりしなかったんだな?」という話だってできるわけで……いったい何の話なんだと思われたかもしれないけれど、野矢&植田のこの本はそうした「考えること」「それを記述すること」、ひいては「哲学すること」の醍醐味を教えてくれる本だと思った。それを書こうとしたらこんなおかしな話になってしまったのだ。まあ、そうしたゆがみこそがぼくであるということでご寛恕願いたい。

どう書いても抽象的な、小難しくしかも押し付けがましい、非常に説教臭い話にしかならないのだけれど……ぼくは過去、「自信を持とう」「なぜ自分に自信が持てないんだ」と思って(のわりに「傲慢なのはいけない」「ぼくはどうしたって大した人間ではないのだから謙虚に生きよう」とも思ったりもしていたっけ)、あれこれアホなことをした。自信を持つために人前に出る時に1杯酒を呑んだり、議論で何が何でも言い負かそうとしたりといったことだ。「人より自分の方が絶対的に/圧倒的に優れている」ことを自信の礎にしようとするとそんなアホなことを平気でやる実に「恥知らず」「はた迷惑」な人間になる、とさえ言える。いや、どうしたって「じゃ、人なんて関係なく『オレオレ』で生きるんだ」と居直ることだって限界がある。人は人とのつながりの中で自分を確かめる生き物だからだ。では、どうやったら自信をつかめるか。それはぼくにはわからない。ただ、断酒会や英語関係のコミュニティなどでひたすら恥をかいたり、「やっちゃった~」と自分の弱みを見せたりした経験が生きているのではないかと思う。そうこうしていると、自分の中から「ポッ」と発光するものが見えてくる。そこにこそぼくは自信の源を見出す。そうして自分の内側にあるものを信じられるようになったら、それが護符となって常に守ってくれる。