跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/03 BGM: Kazufumi Kodama feat. UA - 月光ワルツ

今日は遅番だった。朝に朝活の一環として朝読書をこなし山崎佳代子『ベオグラード日誌』を読んでいると、突然こんな考えがひらめいた。もしぼくがこの人生において、あらゆるネガティブな因子・要素と無縁に生きられたらどうなりうるだろう。言い換えれば、ぼくはこんなことを考えてみたのだった。哀しみ、悲痛とまったく無縁の人生について。そして、ぼくは完璧なドラッグによって究極の幸福状態がもたらされる人生についても考えてみた。なぜこんなことを考えてしまったのか、いまとなってはわからない(これから書くように、この本の内容とはまったく無関係なのだから)。

ぼくは思う――いま、ぼくは鬱な状態に差し掛かっている。向き合わねばならなかった、いろいろな最近起きた出来事・事件から来ているのだろう。地震、飛行機事故、火災などなど。それゆえにこの鬱がぼくの読書をさまたげてしまいあまり読書は進まなかった。読んだ山崎佳代子『ベオグラード日誌』は著者である山崎佳代子(詩人、かつ翻訳家)がヨーロッパの小国(?)での生活を記録したものだ(そこで彼女は紛争・戦争と対峙せねばならなかった)。ゆえに悲しい出来事についても言及されている。死、そして別れ。甘ったるい、口当たりいい本ではないかもしれないがほのかに甘美な1冊と受け取る。

著者はかんたんに、短慮から誰かを責めたりなじったりしない。彼女の文体や様式はほんとうに、純粋に典雅だ。とても繊細だ――彼女は心を開く。感覚をオープンにして、世界と向き合おうとする。彼女はたしかに信じてきたに違いない。大いなる、貴重な(たぶん無限の可能性を有する)潜在的な「希望」という概念の力を。

そして唐突に、上にも書いてきたように、こんな考えに思い至った。もしぼくが常に、四六時中究極に多幸感を感じて生きられたとしたらどうなりうるだろう(そう、いわゆる「ユーフォリア」、あるいはそれこそ「エクスタシー」「恍惚」だ)。このことについて考えるとするならぼくはきちんとグレッグ・イーガンの名作「しあわせの理由」を読み込まないといけない。不勉強を恥じる……過去にぼくは思っていた。完全無欠のドラッグはこの不幸な、みじめでクソみたいな人生を生き抜くにあたって最後の砦・希望だと。その頃は、このポンコツな脳をチューニングして高貴な状態につなげることが幸福に、より現実的に生きるコツなのだと信じ込んでいたのだった。

でもいま、ぼくは思う。もし絵を描くにあたって黒を使えないとしたら……その絵はきっととてもつるつるした、無味乾燥でフラットなものになるのではないか、と。