今日は休みだった。今朝、ぼくはいつものようにイオンに行った。何もすることがなく、買うものもなくともぼくはそこに行く。そして考えごとをしたりリラックスしたりする。そこで、ぼくは父と会った。ぼくたちはぼくの近況について話した。父にぼくは、自分が元気でやっていることを話す。父もFacebookを使っている(投稿はしていないけれど)。そしてぼくの投稿を読んでいる。ぼくの書く活動が父にとって何らかの「感謝」の「親孝行」になっていればと願う。
その昔、ぼくは父を嫌っていた。というのは、父はぼくのことを理解する素振りを見せてくれなかったからだ。ぼくたちはそれぞれのテリトリーに留まり、心理的に離れていた。両親と同居していた頃ぼくはアルコールに溺れ、とっとと死にたいとばかり思っていた。誰からも望まれて生まれてきたわけでもなかったのだとも信じ込んでいた(何たるか)。でも、40になりこの飲酒癖を止めた。そして未来をまっすぐ見つめるようになった。あるいはぼくがやらなければならないこと、未来に向けてなすべきミッションについて(「いま」立っている「ここ」について、とも言える)。いま、ぼくは両親に「ありがとう」と言える。
その会合のあと、ぼくは昼食を摂った。その後本の蔵というブックカフェ(?)に行く。古本を買うためだ。小林信彦の古本『読書中毒』『1960年代日記』を買い、しばらく滞在し英語メモを書いた。そしてグループホームに戻って昼寝をする(1時間ほど)。そして借りてきた本を読んだ。ジョナサン・コットーの『スーザン・ソンタグの「ローリング・ストーン」インタヴュー』だ。
スーザン・ソンタグのこのインタビュー集はさまざまなアイデアを与えてくれている。そして考えさせてもくれる。かつて、ぼくは彼女の本をつとめて読まないようにしようと思った。彼女の態度が「冷たい」「理知的過ぎる」ものと決めつけていたからだ。何でもかんでも知的に分析できるマシーン……でも、いまぼくは彼女の言葉の中に「ホットな」「情熱的な」ものを感じる。彼女はこの世界における多様なリソースを楽しんでいる。本、映画、音楽。でも悪い意味での「オタク的」な態度ではない。彼女は救われるためにそうしたものが必要だったのだ、と思う(こんな理解は失礼に過ぎるものではあるにせよ)。
いま、ぼくは彼女の仕事がいまもアクチュアルであることを認める。もっと読まないと。