跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/09 BGM: Sunny Day Service - 恋におちたら

今日は休日だった。今朝、いつものようにイオンに行きそこで三木那由他『言葉の風景、哲学のレンズ』を紐解く。お供はコーネリアスの傑作アルバム『POINT』だ。この本は実に豊富に、たくさんの哲学的なアイデアのヒントを授けてくれる本として重宝している。今回の読書ではこんなことを考えた――ぼくはいま、ネット上で自分のことを「踊る猫」(英語圏では "throbbing disco cat")と名乗っている。もちろんこれは実名ではない。だけど、人はそんなふうにぼくのことを呼ぶ。

それに加えて、ぼくはこの絵をアイコンとして使っている。だからある意味では、ぼくは自分のパブリック・イメージを作り出したと言ってもいいわけだ。大げさに言えばぼくはこの世界に「踊る猫」という自分自身を産み落としたとも言える。別の言い方では、ぼくは新たに人生を生き始めたとさえ言えるかもしれない。

こう書いていて……そして「いや違うな」と気づいてしまった。ぼくはすでに自分のメインの人生を生きている(ぼくの人生、つまり誕生日を迎え、ぼくの両親から生まれたあの瞬間から)。こう言わないといけない。こう名付けることによってぼくは「もう1つの」「オルタナティブな」「第2の」「サブの」人生を生き始めたのだ、と……なんだかややこしいが。ネットでは、ぼくはこの「もう1つの」人生をオープンに見せびらかしている。たとえば、ぼくはFacebookやXなどでこのヴァーチャルな、つまり「踊る猫」としての意見を記す(だから「どこの会社のどの部署の誰々」としてではなく「個人の見解」を記しているといえばわかりやすくなるだろうか?)。そのようにして、ぼくはこの世界に「公人」というか「ネット市民」として存在することができる。柄谷行人のひそみに倣うなら、所属を離れてパブリックに生き始められる。

過去にぼくはぜんぜんいまとは違う名前を名乗り、そして巨大で恐ろしい「ギフテッドなアスペルガー症候群」というラベリング/イメージを生きていた。そのようにして、ぼくは自分が絶対的な・究極の弱者であると喧伝していたということになろうか(暑苦しく、またうっとうしくなるが「社会が生んだ犠牲者」と名乗っていたのだった)。それはさながら、自分で自分の心の監獄の中に閉じこもっていたのと大差はなかったわけで、ぼくはそこから他者とコミュニケートし、交流して「揉まれる」ことで出る必要があったのだといまでは考えられる(ぼくにはそうした友だちが必要だったのだ――ボブ・ディランの歌を引くなら「見張塔からずっと」見守ってくれるような友が)。

そう考えていくとあらためて、ぼくはこのおそろしい、ほんとうに力強い「ストーリー(嘘の物語を騙ること)」あるいは「フィクション」の魔性の魅力に注意深くあらねばと思えてくる。たとえば、ぼくはいつも自分のことを語り、紹介する際は発達障害者であるという事実を付け加えるようにしている。でも、容易に知られるようにこの形容(こうして頼まれもしないのにわざわざ表明すること)が誰かに「圧」としてのしかかることにも敏感でなければならない。「圧」にならないかと、繊細に気を配らないといけない……そして、ほんとうのぼくたちの「政治」の不思議とはこんなささいな、重箱の隅をつつくことから始まるのだと思う。