人生の意味・意義。その昔、大学生の頃にそれこそ宮台真司にアテられて(言い換えればまったく「誤読」して)「人生は無意味」とうそぶき、「まったり生きる」ことを自分に課していたことがあった。生とは平たく言えばただのゴミのようなものでありつまりは無為・無意味。どんな生命体も意味・目的なんて持たずただ野放図に発展・発達していずれ世を去り消滅して、無になったあとはなにも残らない。虚無主義やアナーキズムと言えば聞こえはいいが、つまりは当時からそんな鬱な考え方に苦しんでいてたいへんだったことがわかってくる(いまなら「いいから美味しいもの食べて運動しろ」とでもアドバイスするかも)。だが、20代はそんな考え方に強迫的に取り憑かれていて抜け出せず、そんな思い込みに押しつぶされて死ぬことばかり考えていたのだった。なんだかジョイ・ディヴィジョンやレディオヘッドの音楽のような話である(皮肉なことに、当時ブリットポップ小僧だったぼくはブラー『パークライフ』『グレート・エスケープ』ばかり聴いていたのだが)。
ただ、実はいまもってなおぼくはこんな「人生の意味」なんて強迫的に響く、とても深い疑問に答えられない。答えられるわけがない。なんべんでも言うけれど、ぼくはただのエッチな凡人であってそれ以上ではありえないのだ。しかしこんな考えについて思考をめぐらせていくと、こんなことが言えないだろうかとは思う。どのポジションからこの問題をとらえ・考えるかによってこうした「意味」をめぐる問題は位相を変えないだろうか。いや、むずかしく言ってしまったが具体的に言えば「ぼく」はこの「ぼくの」人生に意味を見出したいと思う。だが、人はこの「踊る猫」の人生をただの「モブ」「エキストラ」的な人の人生と思うだろう(少なくとも彼ら・彼女たちの恋人や親兄弟の人生よりは格が下がってしまう、と)。これはでも、オセロゲームのようにひっくり返して考えることもできる。ぼくは時にぼくの人生を上にも書いたような理屈から「無為・無意味」と見なす。でも人によってはこんな人生にも「傾聴」する宝石のごとき意味を見出す。そういうこともあるから人生はこわいというか、ワンダフルだと思う。この考え方を突き詰めればたぶんフェデリコ・フェリーニの映画『道』の登場人物が開陳する、石ころの中にさえ意味を見出す発想にも通じるのではないか。
今朝、例のごとく英会話関係のZoomミーティングに参加してさまざまなことについて語らった(今日はフリートーク、つまり話題はなんでもよかった)。どんな信仰・宗教を信じるかをしばし語らい、ぼくが浄土真宗の影響の強い土地で生まれ育ったことを語ると他の方も興味を惹かれたようだった。上にも書いたように、ぼくはとくに信心深い生き方をしてきたとは言えない。言えるわけがない。煩悩と邪欲にまみれた凡人として、今後もこんな生をまっとうするのだろう。でも、ぼくからすればそんな凡人のぼくにも神はいる。その神々はウィトゲンシュタインや村上春樹、小津安二郎やデーモン・アルバーン、フェルナンド・ペソア、そしてシモーヌ・ヴェイユや須賀敦子といった人たちだ。でも彼ら・彼女たちからすれば「汚い手で触るな」とか言われちゃったりしそうな気もする。