跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/07/02 BGM: 井上陽水 - 夜霧よ今夜も有難う

今日は休みだった。今朝、いつものようにイオンに行ってそこで下條信輔『サブリミナル・マインド』を読んでいたのだけれど、ふとスマートフォンの通知を介して、LINEのとあるオープンチャットにおいてボイスチャットが始まったことを知る。なんとなく面白そうと思い参加する。そこでホストの女性とぼくは英語でしばしおしゃべりに興じる。会話における主なトピックの1つがどう英語を学んでいるかについてで、ぼくはこの町の英会話教室を利用させてもらっていることを話す。ホストの方は彼女が主にフィリピンの先生から英語を学んできたことを教えてくださった。楽しいひと時だった。

振り返って思うに、もちろん日本語の「なまり」というか「クセ」が残っているとはいえ(それを無理してまで直す気もなかったりするのだけれど)ぼくの英語からはアメリカ英語の影響・残響を聞き取れるはずだ。そしてつねに先生たちの献身的・懸命な努力によって成り立っている英会話教室においてアメリカの文化を学んできたことも思い出せる(こう書いて、先生たちや国際交流協会の方々などこの英会話教室を成り立たせている人たちの尽力にあらためて頭が下がる)。でもそんなふうに貴重な経験談をシェアしてくださったホストの方の話から、アジアの先生たちの英語からももっとこの世界の未知の領域のことがらを学べるかなと思ったりもした。もちろんこれは英会話教室の先生たちを批判するものではない(わかってください)。彼女が少し時間を割いてシェアしてくださったフィリピンの歴史、日本の歴史のことを思い出す。

午後になり、図書館に行き期限が切れた本を返しアントニオ・ダマシオ『感じる脳』やマイケル・ガザニガ『人間とはなにか』などを借りる(ぜんぜん予期していなかったが、リチャード・ドーキンス『虹の解体』という本を見かけ実に面白そうだったので借りることにした)。その後多和田葉子『エクソフォニー』を読みながらあれこれ思考を野放図に走らせる。ぼくは日本の教育システムによっていろんなことを学んできた。こうして日本語や英語を用いて自己を表現することはその筆頭だろう。でも、仮にそうしたことが成り立たなかったら。仮にどんな教育も受けられずに生きてきてしまったなら。そんなことを考えると、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の映画『BIUTIFUL』を思い出す。実にタフというか、観たあとも重く「残る」映画だった。ぼくの解釈では(個人の勝手な見解・解釈になるが)そうして移民とされる人たちが見舞われてきた問題をストレートに扱った問題として受け取れる。

夜になりディナーを済ませ、英会話教室に赴く。今日はアメリカの独立記念日(インディペンデンス・デイ)と日本の国民の祝日について。生徒も少なく、その分たっぷり話せた。ある生徒とぼくはその話題を話し、そしてひょんなことからアメリカ文学についても話した。なにかのはずみでぼくが大学で英文学、とりわけアメリカ文学を履修していたことを話したからだろう。ロバート・フロスト、エミリ・ディキンスン、ウォルト・ホイットマンなどなど。その後、ぼくが発達障害者であることを話すと実にびっくりされて、同時に感銘を受けられたようだった(とはいえこれまで隠していたつもりはなかったし、これからも隠すつもりもないのだけれど)。その後、話題は脱線してしまい少しだけかじった『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』や『グッド・ドクター』『レインマン』(いや、恥を忍んで言えば『レインマン』は観たことがないのだけど)の話をしたりしてしまった。