跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/07/08 BGM: Beck - Dear Life

今日は遅番だった。今朝、市役所の方が行われるモニタリングのための面談を少々済ませる。その後はいつもどおりイオンに行きそこでリービ英雄の文庫本『日本語の勝利/アイデンティティーズ』をこつこつ読むもはかどらず、集中できないので投げ出してしまった(だが、この本は実に面白い本であり、読み応えたっぷりで長く付き合える1冊と見た。だからこの不調はひとえにこの夏が暑すぎるからだろう。そういうこともあるのだった。それが人生である)。結局読むのをやめてぼんやりメモパッドに考えごとを書きつけ・書きなぐって過ごす。たとえば、「なんだかこの人生、面白いのかなあ(面白いような気もするがどうなんだろうか)」なんて。

モニタリングの席で、たまたまそこにおられたグループホームの元管理者の方があとになって「実にわかりやすく話してましたね」と言って下さった。でも、これに関して言えばいまだのこのことはまったくもって自信を持てない。ぼくが言ったことが通じたかどうか確証を持てないからだ。相手が誤解したかもしれない、なんてことをしつこく疑う(こんなことを疑うと、アホかと笑われてもしょうがないがそれでも「太陽が明日も登る」という子どもでもわかる常識だって疑わしいものになってしまうので参ってしまう)。たぶんこんな疑いは時間のムダ、体力と気力のムダ使いだろう。でも、この自閉症のスットコドッコイな脳みそはこんなことをしつこく考えるのである。

それはそうと、今朝漠然と考えたことはこんなことだ。どうやって、ぼくは自分だけの貴重な本とめぐり会うのだろうか。リービ英雄がその豊富な読書体験から語るように、日本には多くの優れた小説家が存在する(ちなみにリービはその筆頭として中上健次島田雅彦山田詠美高橋源一郎といった作家を挙げている。まったく同感だ)。でも、ぼくがもう若くなくセンスがすでに老いて鈍磨してしまっているせいか、ぼくのセンスはクラシックな文学に惹かれるようになった。だから最近は夏目漱石三島由紀夫なんかをめくっている。実を言うと、もう最近は小説自体を手に取ることもめっきり少なくなってしまった。でも火を見るより明らかな事実として、いまの作家だって彼ら・彼女たちが生み出しうる渾身の傑作・珠玉の逸品を書いているはずでそれを理解できないぼく自身のふがいなさ・無能を実にいらだたしく思う。そんなわけで、ノンフィクションにばかり眼が向く生活を過ごしている。

そんなことをあれこれ考えて、その後イオンの中にある未来屋書店に行く。Discordのぼくが参加しているあるサーバ(グループ)にあるブッククラブの会合で夏目漱石の『こころ』が課題図書として選ばれたので、ならぼくもこの機会にいっちょ読み直すかと思って買い求めることにしたのだった(そして、同時に磯部涼『令和元年のテロリズム』文庫版を見つけたのでそれも買ってしまった)。高校生の頃、ぼくはこの漱石の傑作を読み通したことがある。とはいえ、この作品の深遠さをどこまで理解できただろう。当時はあまりにも若すぎ・幼すぎてまったくもって漱石の文体や哲学的な思索もただ「読み流すだけ」「目を通すだけ」で終わってしまっていたはずだ。当時はそんなことより村上春樹にこそ首ったけだったぼくは、しょせんはそんな小僧だったということになる。

でも……いまはどうか。まだ若いのか(少なくとも、心は若いのか)。自問するが、なんら気の利いた答えも浮かばず困ってしまう。文字どおりまだ肉体も精神も若い盛りにあった頃、ぼくはその若さがなんだか疎ましくみっともなく、とっととこんな青春期を済ませたいと思ってばかりだった。若いということは単に無知で幼稚で、ぜんぜん未熟で「青臭い」ということしか意味しないのだと思っていたのだった。言い換えれば人として半人前・半端者ということになる。大学に在籍していた頃、あるいはその後の20代はそれこそ老獪な大人になろう、精神的に熟そうとばかりあがいてあれこれ悪戦苦闘したっけ。若い頃は大人になるための手引きを示す人が誰もおらず、この発達障害ライフを生き抜くために七転八倒したりもしたのだった。でも、いまはどうだろう。J・D・サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』よろしく、さまよえる子どもたちをガイドする存在になれているだろうか(そんな話だったと記憶しているのだけれど)。だったらいいのだけれど……なんにせよ、こんなことを書いているまさにこの真っ最中も感性はじわじわ老いているのであった。それもまた人生である。