跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/04/18 BGM: U2 - All I Want Is You

この日記でも折に触れて書いてきたのだけれど、今年でぼくは49になる。十代の頃、まだインターネットなるものはこの世に姿を見せていなかった(正確に言えば、「実用化」されて現在のような便利なツールというかインフラというか、そういうものにはなっていなかったはずだ)。13の頃に英語を学び始め、ただ世界はまだいまのようなグローバル化・国際化の様相を見せておらず、だからなんで英語なんか学ばないといけないんだろう(日本で暮らすんだったら日本語で充分だ)とブツクサ愚痴ったりしたのを思い出す。ああ、世の中ずいぶん変わったなあ……と、その頃のことを思い出すにつけ思う。

ああ、諸行無常。世界の動きについていかないといけない。それは真理だ。でも、そんな変わりゆく厳しい生活の中で、いかにして正気を失わず「流されない」「ブレない」ようにすべきか考えないといけない。モットーを保つ必要があろう。ぼくが信じてるそのモットーとは何か。考えたのだけど、1つのありうる答えとしてはこんなものがあるだろう。どんな時であってもぼくは勘を信じる。美辞麗句というか、「正しい」「正しすぎる」理想というかイデオロギーではない(たとえそれが「多様性」「愛と平和」であっても、勘が「おかしい」と思ったらぼくは立ち止まって考えてしまう)。

勘を信じ、内心に耳を澄ませる。マジョリティ(多数派)がお前はおかしいとかアホだとか言っても、ぼくはこの人生を選ぶ。でも、自明の理としてぼくはぜんぜんパーフェクトではないのである。人間なのでお手洗いにも行くし、しょうもない欲望や夢想にひっかかったりうっかりミスだって連発したりする。ミスなら毎日犯している(英語で日記を書くとネイティブの読者から真っ赤になるほど添削されて、ぼくの顔面まで真っ赤になる)。ああ、生きれば生きるほどぼくは自分がいかにランダムというかでたらめでどうしようもない俗物で、矛盾の固まりなのかを自覚してしまう。

その矛盾の1つとして、たとえば自殺の自由を認めるべきだろうか。あるいは安楽死を病的な生から開放される用途として認めるべきだろうか。Xでぼくはこの話題を見つけた。ぼくは自殺や安楽死を認めたい。というのは、ぼくの想像力には限度があるのでしたがって想像もつかない領域で「死ぬよりつらい」人生というものがありうるとは思うからだ。安楽死よりつらい生……彼らがそう思うなら、それは主観としてそうなのだろう。

でもぼくはいまの意見として、ぼく自身は自己決定に基づく自殺・安楽死を選ばない。少なくとも独断では。というのは、率直な実感として思うのは(だから「勘」からこの意見を書く。エビデンスは示しようがない)ぼくの命は他人によって支えられている。アホな考えだとか言葉遊びだとか言われても、ぼくの人生は他人との共同作業というかコラボレーションの賜物だと信じる。ちょうどそれはこのぼくの考えがたくさん触れてきた本とか音楽とか映画とかと同じようなもので、とりわけ過去にあぶくのような文化(ポップカルチャーとかサブカルチャーとか呼ばれるもの)に触れてきたその経験が生み出したものであるように。