跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/25 BGM: Oasis - Don't Look Back In Anger

最近になって、ぼくはこの性格がどうやってできあがったのか考えることが増えた。そして、こうした考え方・意見がどこから生まれきたのかについても。友だちから言われるのはぼくのアイデアが哲学的で「深い」ということだ。それはもちろんうれしいのだけれど、ぼくは大学で哲学を学んだことはないのだった。大学生の頃は英文学を専攻した(でも、当時ぼくは勉強というものを総じて「ナメて」いたのでただの愚かな学生にすぎなかった)。もしかしたら当時のぼくとはまさに、「反哲学」「反知性」なただの衆愚の1人だったかもしれない。ポップ・カルチャーを愛するただの凡夫。

なんで哲学をそこまで嫌ったんだろうか。このことについて考えるにつけ、ぼくはこの事実に立ち返る。過去、ぼくはほんとうに自分自身に関して低い自尊感情しか持てなかった。だから当時よく読まれていた印象があったドゥルーズデリダがどうとか、東浩紀がどうとかいうのはたんにエリートの読み物であり賢い人が読むんだろうと決めつけてしまっていた。ぼくは賢くなんてなかった(当時はそう信じ込んでいたのだった)。だからあきらめて、そうした本は敬遠してしまった。

でもこんなことを書くと「冗談は顔だけにしてください。あなたは早稲田大学を出たんでしょう?」と言われるかもしれない。いかにも、過去そんな大学にいた。でも実際のところ、英文学を学んでいても授業で英語を披露するなんてこともなかった。授業でジェイムズ・ジョイスの短編を原語で読むなんてこともやってみたのに、それは「読む」だけで実地の英語の勉強にはほど遠く……そして大学に入って、いじめやその帰結としての孤立とは無縁になってからもトラウマからか人間不信がはなはだしく、「ぼくはアホだ」と思い込んでいた。その後、就職活動で失敗して40まで文字通り孤独に呑んだくれの日々を過ごしたのだった……。

午後、こんなことについてLINEでジョブコーチにメッセージを送った。いまや、ぼくのまわりの友だちはぼくのことを実にフェアに、ていねいに「普通の人」「ありふれた人」として接してくれる。天才でもアホでもなく。そして40になって、そうしたいまの友だちと出会えてからその出会いがたぶんきっかけになってぼくもまた自分のことを「普通の人」「特別じゃない人」と思える得ようになった。子どもの頃はまあ、いまでいういじめあり無視ありで大変だったけれどいまはそうしたことがこの思考の基礎を作っているかなと思える。こうした考え方をつくる1個のレンガかな、と。ああ、その意味では実にいいレッスンだった。もっとも、選べたならもっと別のかたちのレッスンのほうがありがたかったこともたしかだったにせよ。