跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/11

永井均『遺稿焼却問題』という本を読んでいると、永井均自身が自分の中に狂気を飼っているという話が出てきた。なかなか面白い表現だなと思った。私も、自分自身の中に狂気を飼っている。煩悩に満ちたモンスターと言うべきかもしれない。それはなかなか手懐けるのが大変なのだけれど、でもその狂気のモンスターが居なければ私が自分の正気を保つことは難しいだろうな、とも思う。そいつは私をけしかけて、例えば読めもしないハイデガー存在と時間』を読ませようとしたりする。ひとりで居る時の私はほとんど狂人と言っても差し支えないと思う。

朝、時間があったのでブレイディみかこ『他者の靴を履く』を読んでいた。ブレイディみかこの本は好きだ。思想信条が合うから、というのもあるがそれ以上に彼女の本は堅苦しくない、肩肘張らないある種のフランクさというのがあると思う。『他者の靴を履く』では言葉に対する信頼というか、思っていることを言葉にすることの重要さが説かれる。それは言葉に対する信頼がなければできないことだ。私は言葉を信頼している。そして、論理にも重きを置いている。論理的であろうとしている。むろん、私のベースにあるのはぐつぐつと煮えたぎる狂気や情念なのだけれど。

発達障害者として生きていると、闇雲にこういうことを書くのは下品ではあるのだけれど、それでも定型発達者の気まぐれや曖昧さといったものに苦しめられる。向こうからしてみれば発達障害者は融通がきかないガンコな存在ということなのだろうから、この溝は永遠に埋まらない。ただ、その溝を越えて私は論理的であることを試みようとする。この性格は多分いじめに遭ってそれ故に自分のことを深く顧みなければならなくなった時、悪意のある相手を論理でどうねじ伏せるか考える癖がついた時に育まれたのだろう。

だが、私のベースにあるのはあくまで(くどいが)狂気や情念であり、煩悩や利己心なのである。『仁義なき戦い』の言葉を借りれば「わしらうまいもん食うてよ、マブいスケ抱くために生まれてきとるんじゃないの」という極めて俗っぽい欲望だ。かわいい女の子とイチャイチャしたい、という。だが、その欲望をむき出しにして脂ギッシュに生きるのもなんだか虚しいので普段は努めて高尚なこと、観念的なことを考えたり書いたりしているという、それだけのことだったりする。私とはつまりそんな風に人間臭い俗物であり、一個の煩悩の運動体としてある存在なのだった。