跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/28

池田晶子『リマーク』を読む。哲学的なアイデアを収めた書物で、なにかがひらめく瞬間を切り取ろうとする寸言を撒き散らしたかのような構成となっている。裏返せばそこから粘り強くなにかを導こうと議論を重ねる本ではない。故に、とっちらかっている印象を受ける。彼女は自分という謎に驚き、その自分がこの世界の中に存在するのなら世界とはいったいなんだろうと問うているように思う。それは私自身の(素朴な)問いと同じだ。私はいつも世界というものを不思議に思っていた。マルクス・ガブリエル的に、一括して語れる「世界」なんてものはなくただゴチャゴチャと人や物が存在するだけと捉えるのも面白いかもしれない。

池田晶子を読んだらまた哲学の世界に浸りたくなって、読みかけだったウィトゲンシュタイン哲学探究』を読み終える。ウィトゲンシュタインもまた粘り強い議論を行うことが苦手で、常に頭の中に浮かぶアイデアを書き付けて(今の流行りの言葉で言えば「吐き出して」)議論の種を撒き散らす人だったようだ。故に彼の思想はユニークで面白い。彼から学ぶべきは、彼の哲学のやり方であって結果的になにを書いたかではない。私自身、この本を読み自分のやり方と(彼には遠く及ばないにしろ)似ているなと思い、励まされたように思った。

今日はそんなふうにして哲学のことばかり考えてしまった。また脳科学の本を読んで、別の側面から「なぜ自分の意識はこんなふうにできているのか」を考えるのもいいかもしれない。例えば、なぜ薬を飲んで化学物質を摂取することで自分の考えがコントロールされうるのか。されるのなら、自由意志は薬の調合次第でコントロールされることになる。それを「自由」意志と呼んでいいか? こんなめんどくさいことばかり普段考えているので、ドツボにはまって死ぬことをあれこれ考えたりするのかもしれない。むろん頭で考えることは限度があるとわかってはいるのだけど。

私は「繊細さん」なところがあるらしい。LINEで少しディスられただけで傷つき、そのモヤモヤからなかなか立ち直れない。かと思えば昼寝をしてウィトゲンシュタインを読んで気分を反らせばそれで立ち直れてしまう。この自分の経験から、私は「お気持ち」で動くことの危険性を考えてしまう。確かになにかに対して私自身もまた「お気持ち」で動いてしまう。今のウクライナの問題に関しても民間人が殺されていることの残酷さに「お気持ち」で反応する。だが、そこから粘り強い思索を通過しないとその「お気持ち」は無責任極まりない言動で終わってしまう……とわかっていても「お気持ち」をコントロールするのは難しいことだ。