跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/03/04

clubhouseでクラブを作った。主に遅く仕事のある日の午前中、メンバーで集まってなにか雑談をできればいいなと思ったのだ。名前は「Let Our Souls Talk」と名付けた。略すと「LOST」になる。それで、今日も朝なにかトークをできればと思ったのだけれど集まれなかったので諦めることにした。職場に行き、仕事までの時間をどんなことを話すか考えながら過ごす。軽い話題がいいだろう、と思った。どんな音楽を聴いているのか、どんな本を読んでいるのか……朝、気持ちのいいコミュニケーションをして気分良く過ごせればいいなと思う。

前にイヤミを言われたことがある。私の言葉の端々に「好戦性」を感じる、というようなことだ。調べてみると「平和主義者の好戦性」という概念があるらしい。平和を語ることは結構なことだが、ならば彼が「好戦性」から無縁かというとそんなことはない。そして、戦争とはむしろそんな「平和主義者」が起こすものであるとも言える。彼らの中の「好戦性」が現れて戦争となるのかな、と……そう考えると私自身、自分の中の「好戦性」に敏感であるべきだとも思う。自分の中にそんな「ねじれ」がありうることはなんら不思議ではない。

「好戦性」が嵩じると、目の前に居る相手への敬意が消えてしまう。目の前の他者の存在が、それ自体深遠であるという事実への感受性が薄れる……このように世界が存在するということ、このように他者が存在するということの深遠さに驚かなければならない。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で語ったように。むろん、その相手とは容易に言葉が通じない。当たり前だ。ひとりひとり違う人生を生き、違う文化圏に属している。フリッパーズ・ギターが歌った「わかり合えやしないってことだけをわかり合うのさ」という境地を大事にしたい。

田中康夫はかつて、朝日ジャーナル岩波文庫も一種の「ブランド」ではないかと喝破した。私は、ウィトゲンシュタインデカルトも哲学におけるファッショナブルな「ブランド」ではないだろうかと考えた。私自身彼らの思想を深く理解しているとは言えないのだけれど(いや、だからこそ?)、とりあえず名前をありがたがっていればいい、という心理があるのかなと思ったのだ。彼らの思想の本当に危険なところ、本当に大事なところに触れずにそうして戯れて過ごしているという自覚を持っていたい。そう思った。ウィトゲンシュタイン哲学探究』を読み返し、デカルトも読み返すべきかもしれない。小泉義之デカルト=哲学のすすめ』も読み返してみようか。