フェルナンド・ペソア『不安の書』を読み返している。ペソアのように書いてみたい、という欲望を感じる。読みながら、レディオヘッドというロックバンドが「もしきみが怯えているなら、怯えていてもいいんだよ」と歌っているのを思い出す。ペソアは自身が感じる不安や倦怠について、できる限り正直であろうとしているように思う。生きることそれ自体が徒労のように感じられて悩まされるならば、その悩みをごまかさずに見つめること。そこから書き始めること。そんなことを記しているように思う。私もペソアと同じように書けるだろうか。わからない。
「あなたが日記を書く目的はなんですか?」と訊かれた。これは答えにくい質問だ。ただ書くことが好きで、でも書きたいトピックがなにもないので日々の記録を書いているというのが正直なところだ。思い出すのは夏目漱石は『それから』で生きる意味について論じて、「最初から客観的にある目的を拵らえて、それを人間に附着するのは、その人間の自由な活動を、既に生れる時に奪ったと同じ事になる」と書いていることだ。私の書くものにも「客観的」な目的はない。だからこそ「自由に」書けるのだろうと思う。
ペソアと、あとはウィトゲンシュタイン『哲学探究』をボチボチ読み返し……昔は新刊をまめにチェックし新しい風潮に追いつこうとして必死だったのだけれど、今はこうして何冊かの本当に大事な本だけを読み返して過ごしている。歳を取ったからなのだろうか。どんな風に時代が変わり私の周囲の状況が変わったとしても、私は信頼できる本を何冊か持っておりそこに帰っていくことができる。これは幸せなことだと思う。読み返せる本が傍らにあれば、私は孤独ではないということになるからだ。それが成熟なのかもしれない。
「あの日あの時あの場所で君に逢えなかったら」と小田和正は歌った。私も、発達障害に関係した友だちとの出会い、あるいはインドネシアの友だちとの出会い、等など……そうした出会いがなければ、私の人生は絶望的な方向へ転がっていっただろうと思う。ああ、私は彼らとの交流によって変えられた……英語でものを書くようになったのも、「死にたい」と思わなくなったのも、酒を止められたのも、自分ひとりで成し遂げたことではなかった。大事な人が居たから続けられたし、これからも続けていけるのだろうと思っている。