跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/25

午前中時間があったので、clubhouseで英語でトレーニングをする。ロシアのウクライナ侵攻について話す。とはいえ、私は常に勉強中の身である。ウクライナの歴史もロシアの事情もまだまだ学ぶ余地がある。私なりのスタンスを明確にするなら、自分の意見が常に「不完全」であることを認めることだ。他人と意見を交換することでベターなものへと精錬させたいと思っている。別の言い方をすれば、他人とのディスカッションがどうしても必要である。その過程で恥をかくこともあるだろう。アントニオ猪木から学んだ「馬鹿になれ」の精神が活きてくる。

それにしても、面白いなと思うのはTwitterを見ているとバーチャルなテクノクラートや政治家たちがたくさん居ることだ。自分が首相だったら、あるいは最前線の指揮官だったらどうするか……というノリでこの有事を語っている。それに水を差すつもりはないが、私はその立場を採りたくない。自分は結局どんなに背伸びをしてもひとりの国民/庶民でしかない。その立場を離れて、俯瞰した立場から語ることを私は(あくまで自分自身の美学の問題として)みっともないと思う。それを忘れたくないと思った。所詮私はただの愚民/モブにすぎないのだ。

私は湾岸戦争の頃に高校時代を迎えた。あの戦争が自分が初めて「リアルに」戦争を捉えた体験となった。平和憲法の意義はどこにあるのか、そもそも理想や綺麗事の意義はどこにあるのか、そんなことを幼いなりに考えた。その体験は今に生きている。所詮「よその国」の話としてではあれ……自分自身が銃を持つ必要に迫られたわけではなく、遠い国の出来事として反応したにせよ、だ。「綺麗事」「理想」はこの時代、いかにも分が悪い。確かに「理想」が現実から乖離することで人がどれだけ苦しむか、それを踏まえて考えることも大事だろう。肝に銘じたい。

だが、それを踏まえても私は「綺麗事」「理想」の力を信じたいと思うのである。戦争反対の精神、失われていい人命など基本的にありえない「殺すな」の精神。だが、独り相撲はここまでにしよう。くどくなるが本を読み、人と話して自分の不完全に固まった意見を破壊し再構築させることを試みたい。まずはアレクシェーヴィチの『セカンドハンドの時代』を読んでみようか……自分の中の好戦的な部分を見つめ直し、異なる意見に闇雲に「NO」を言わず謙虚に自分を振り返ること。私はこのことを自分に課したい。私は論争で勝ちたいわけではない(そもそも勝てる気がしない)。ただ自分を刷新したいだけだ。