跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/03/02

また小説を読もうかと考えている。普段は古井由吉堀江敏幸を読んでいる。日常と地続きになった世界を舞台にしたもので、そこからこの世界の儚さや愛おしさ、有限の生のおかしみと美しさについて考えるのだ。だが、たまには思い切りファンタジックなものを読むのも面白いかもしれない。バルガス・リョサなんてどうだろう。哲学の本ばかり読んで偏食を起こすとよくないとウィトゲンシュタインも言っている。ナンセンスなものでもいい。哲学とナンセンスをつなぐ役割を(私の中で)果たしている土屋賢二のエッセイを読むのもいいかもしれない。

今日はエリエザー・スタンバーグ『〈わたし〉は脳に操られているのか』を読んだ。ちょっとセンセーショナルで衝撃的なタイトルだが、中身は堅実に「脳と自由意志」の関係を語っている。私が意識的に/意図的に考える前に身体が行動を起こしている、という実験結果を持ち出しそこから、「脳に操られている」としか言いようのない状態がありうることが論証される。この「操られている」をバカにしてはいけない、と思った。私自身、職場に行けば職場の空気に「操られ」、また身体に沁み込んだ記憶や本能に「操られて」仕事をしているのだから。私とは意外と大したことのない存在なのかもしれない。

戯れに國分功一郎『はじめてのスピノザ』を引いてみると、「私たちは身体のなしうることすべてを説明しうるほど正確に身体を理解してはいない」(p.99)と語っているのがわかる。正確に理解してないのなら、それを万能にコントロールしていると思いこむのもまた現実離れしているのではないか。いや、人間とは万能ではない。難しい話ではない。空を飛べないし水中で暮らすこともできない。だが、その制約の中でなら自由で居られる(なんじゃそりゃ、と言われるだろうか)。私の身体も精神も実に謎だらけだ。またダマシオを読んでみようか。あるいはロジャー・ペンローズ量子力学と哲学を結びつけた試みも興味を惹かれる。

夜、断酒会に行く。行くまではめんどくさいとばかり思っていたのだけれど、行ってみると参加者や会場のウェルカムな空気に触れられて「ほっこり」してしまった。逆に言えば私はそうして他者や場所にコントロールされるということであって、決して自由ではない。私が自分を全てコントロールしうる(あるいは、しなくてはならない)と考えることこそ過信なのかもしれない。また國分功一郎の哲学を読み返してみようか……あるいはウィトゲンシュタインに倣ってこの世界を超えた真理など存在しない(故に、この世界の内部に真理を司る存在を見出さなければならない)、と悟るべきだろうか。いや、そもそも真理とはなんだろう。神は死んだのではなかっただろうか?