2022/09/25

今日は休日だった。朝、いつものようにイオンに行きそこで野矢茂樹ウィトゲンシュタイン哲学探究」という戦い』を読み始める。考えてみれば私が徒手空拳でウィトゲンシュタインなどを読み始めたのも、今関わっている発達障害関係のミーティングに参加するようになったからだ。私の考え方や書くものが哲学的だと言われて、それでそれなら自分なりの哲学を編むことができるのではないかと身の程知らずにも考えたのだった。とはいえ私がフォローできる哲学は本当に限られている。カントやヘーゲルに関心はなく主にウィトゲンシュタインを読み、彼の考え方を真似ようと試みている。

野矢茂樹の本の中で、ウィトゲンシュタインの考え方が平たく整理されている。彼の(あるいは「彼ら」の)書くことは確かに哲学的な語彙が使われるために難解に見えるが、それに惑わされずに読めば実に平凡な事柄が書かれている。「わかる」ことをわかるとはどういうことか。私の「痛い」という感覚が他人にも「わかる」とはどういうことか。そんな、ものすごく原初的なことを何とか説明/解明しようとウィトゲンシュタイン&野矢は言葉を尽くして語っているのだ。その病的な情熱にこそ、私は哲学のエッセンスを見出してしまう。

午後、時間があったので村上春樹風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』を読み返す。これらの初期作品からは、私は村上春樹が小説を書き始めることに関する恥じらい/含羞を感じる。とりたてて特別な人間ではない自分が、そんなに特別な事柄でもないことを書くとは何だか恥ずかしい、という感覚だ。そんな恥の感覚から書き始めていることに私も共感する。こんな時代において、作家たることや小説を書けることは特別なことではなく、むしろ恥じらいを感じなければならないほどありふれたことなのではないか、と思う。

ウィトゲンシュタイン村上春樹も、ごく最初の時点で立ち止まっている。哲学を始めることや小説を書くことの「以前」の段階でモゴモゴと口ごもっているように感じられる。そしてそれは、スムーズに哲学や小説を書ける書き手、自分のやっていることに疑いを抱かず滑らかに言葉を並べて/連ねて書くことのできる書き手よりも信頼できる所作のように思うのだ。それは多分に私も人と違う言葉を喋ってしまい恥をかき続けたからなのだろうと思う。発達障害も絡んでくるのかもしれない(大胆なことを言えば、私はウィトゲンシュタイン村上春樹発達障害の疑いが強いと思っている。それ故にこそ私は彼らの書くものの歪さに惹かれるのかもしれない)。