跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/06/19

今日は発達障害を考えるミーティングがあった。コロナに気をつけて、ZOOMでオンラインで開く。私は今回はclubhouseで自分がどのような活動を行っているかを話した。宍粟市国際交流協会の方から薦められて登録してみたこと、そしてジュディスさんと出会ったこと、彼女とコラボしたこと、などなど。様々な方との出会いが私の世界を広げてくれたことがありがたいと思った。そして、私の英語を活かした活動はまだまだこれからも続く。今度clubhouseで自分が発表する時は、この発達障害に関するミーティングについて話したいと思っている。他の方の発表も興味深く、楽しいひと時となった。

そのミーティングが終わった後、自分の頭の中を整理すべくイオンに行った。イオンは混んでいた。ここにいる人たちは私が参加したミーティングのことを知らないのだな、と思った。つまりまったく異なる価値観で動いているということだな、と。ジョナサン・ハイトという思想家がアメリカで起こった、ソーシャルメディアがもたらした「分断」について語っているのを思い出した。私たちと、ここにいる人たちはもはや別の国に住んでいると言っても過言ではないのではないか……「日本1」と「日本2」というように。何だかスティーヴ・エリクソンの小説みたいだけど。

イオンで自分の頭の中を「デフラグ」すべくメモパッドに自分の思っていることを書き出し、整理する。それが終わった後に古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』を読む。ウィトゲンシュタインという哲学者に惹かれるようになって、『論理哲学論考』『哲学探究』を徒手空拳で読み返し解説書を読むようになった。古田徹也のこのガイドブックでは、ウィトゲンシュタインが一度は透徹した認識で哲学を語る営みを終わらせようとしたこと、そして再び彼自身の問題に取り組み始めたことを解説している。それはあたかもウィトゲンシュタインが一度はこの世界から「解脱」したこと、そしてそんな天使的な境地からまた人間に戻ったということをイメージさせる。

ウィトゲンシュタインの書いたものから学ぶべきは、彼がどんなことについて議論したかということではないと思った。むしろ彼がどう議論したか、その考察の身振りというか考え抜く情熱や愚直さそのものではないか。その意味でウィトゲンシュタインは立派な「哲学の教師」なのだろう(彼自身、実際に学校の教師をして生計を立てた時期があったという)。私はウィトゲンシュタインのような清らかな考察ができているだろうか。もちろん、私は私の興味のある問題をしつこく考え抜くことしかできない。そうして考え抜く過程で孤立することを恐れてはならないのだろう。そして「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という彼の言葉に倣って、「沈黙」するところまで思考を掘り下げなければならない……。