2022/06/03

町内にあるお寺で毎月やっていたミーティングを再開できないかどうかと考えた。もし再開できるなら、私はclubhouseでやっている「Let Our Souls Talk」というルームで話してきた自閉症のこと、私の半生について及び私が経験した恋について話せないかと思った。そうしたことを英語で話してどんなことを感じたか……このミーティングでも、私は様々な人と出会っていろいろなことを学んだ。私の中から湧き出てくる、私がこれまで体得した経験から生まれた哲学を語ることができる。そんな数少ない場所としてこの「哲学カフェ」はあり続けている。

もし、私の人生をざっくり成功者か失敗者かという観点から見るとしたら私の人生は紛れもない、典型的な失敗者の人生であるだろう。私は貧乏人で、何度もベストセラー作家になって人生大逆転を成し遂げたいと思い、その度に失敗してきた。私は何者にもなれなかった……ただ、その過程でかけがえのない友だちと出会い、確かな幸せを手に入れられたのも確かなことだ。でも、幸せとは何だろう。わからない。アランの『幸福論』を読み返すことが必要であるようだ。アランのアイデアはいつも私にとって「効く」ものであり続けている。

時には、アランを読んだりウィトゲンシュタインを読んだりしながら「こんなものを読んで何になるんだろう」と思う。彼らほど私の脳は優秀ではないし、読んでも一文の得にもならない。でも、私はついついそうした本を読んで考え込んでしまう。それが私の性分なのだろう。オウム真理教事件について考えたことを思い出した。私の世代はオウムのあの事件が青春を直撃した世代だ。真面目に幸せとは何だろうとベタに考えると、あのようなカルトに吸収されてしまうかもしれない。そんな恐怖が(バカげたものかもしれないが)リアルに感じ取れた世代だ。

なぜ幸せなのか。なぜ自分は今の自分に満足できているのか……いや、金や名誉をもっと欲しいと思っている自分自身がここにいることは認めなくてはならない。だが、そうしたものが与えられるかどうかは時の運が決めることだろう。しかし、友だちとの絆やこうして上達した(のだろう)書きぶりは私の中にあるものでありいつも変わることがない。私の中にあるもの、私が所有しているものを私は大事にしたいと思う。村上春樹みたいにはなれなかったけれど、私は私自身の真の幸せに気づいた。それでいいのではないかと思う。