今日は遅番だった。朝、図書館に行き三木清『人生論ノート』を借りる。さっそくスマッシング・パンプキンズ『Adore』を聴きながら読んでみる。三木清はこの本の中で、私に与えられたさまざまな条件・特性についてそれが私のものではありえないからこそ尊いのだと記していると受け取った。私は発達障害者であり、男であり、アルコール依存症である。兵庫県に住み、今の職場で働いている。それらは三木清によれば「与えられた」もの、「ギフテッド」なものである。ゆえに尊い……これは悟りであるようにも感じられた。かつて私は自分自身にまつわるすべてを嫌い、呪った。上に書いたような発達障害者として生まれ落ちたことも不幸なこととしか思えなくて……だが、ならば今のように自分がこの世界を愛するようになったのはいつからなのだろうか、と思う。それはまったくもって謎だ。だが、この人生を振り返ってみるとそれは40の歳に出会った方、その出会いを通して交流を深めた方々(その中の1人の方には恋すらしたのだった)から得たことだということがわかる。ああ、そんなこともあるのだった。
この人生、この自分自身を愛するようになった。別の言い方をすれば私は「諦めた」のだと思う。私が発達障害者であることも(だから車を運転できないし、人とはどうしたって異なってしまうことも)、アルコール依存症でありアルコールを一生口にできないことも、その他諸々についても……だが、どのようにして「諦め」がついたというのだろう。多分にそれは村上春樹を読み漁ったからだとも思う(私は春樹の作品を、社会と折り合いをつけられない人間の通過儀礼の話として読む)。そして私自身が今の職場で働くようになって「揉まれて」、端的に鍛えられたからかなと。今、私は自分の中の万能感に足を取られているとは思えない。私は凡夫である。ただの英語好きで読書好きの、エッチな男である。アルコールを呑めない味気ない人生をストイックに生きる男である。そうして「諦めて」生きることこそが「まったり生きる」(宮台真司)なのかな、とわかり始めてきた。実に長い道のりだった……。
三木清は「幸福は表現的なものである。鳥の歌ふが如くおのづから外に現はれて他の人を幸福にするものが眞の幸福である」と記している。だとすると、私自身がこうして日記を書いていることも「外に現はれて」いる営みであり、幸福を生み出す鍵なのかなとも思う。自分が幸せだからこうして自ずと書くべきことが湧き出てくるのだろうか、それとも書くべきことを書く行為それ自体が私を癒すから幸せが訪れるのだろうか。「諦めて」、「レット・イット・ビー」の精神で生きる……今日の日記はなんだか難しいものとなった。これはひとえにまだまだ『人生論ノート』を消化しきれていないからであり、もっと読み込まないといけない。三木清の名を知ったのは私が龍野高校に通っていた時のことなのだけれど(たつの市出身の人だと知った)、当時はまったく読む気にもなれなかったことを思い出す。今読んでみて、今というタイミングで知ったことを運命的なものとして感じる。読んでよかったし、これはひょっとすると「一生の書物」になるかなと思った。
仕事をしていて、ふと「結局、私はプロの作家にはなれなかったな」と思った。なろうとして死ぬ気で努力をして、いいところまで行ったつもりになっていたのだけれど……だが、なれなかったにせよ自分は幸福なのだなとも思っている。信頼できる読者の方、素敵な友だちにめぐり会えたのだから。それはなるほどちっぽけな幸せなのかもしれない。だが、その人間関係を通して(私は実に多くの人間関係を通して自分を律し癒している。断酒会、発達障害を考えるミーティング、英会話教室、DiscordにMeWe……)私は確かな幸せを学び体得した。ベストセラーやバズりには至らなかったけれど、これ以上欲をかく気にもなれない。鉱脈を掘り当てたのかな、とも思う。これ以上どうあがいたって幸せにはなれない、と思えるような確かな手応えを感じている。もちろん生きることは今でもなお苦しい。逃げたい、消えたいと思うこともある。しかし、そうした苦しみだけが私の人生のコンテンツではない。実にカオティックに、幸福と不幸が混ざり合ってグツグツ煮えた中身を伴ったものが私のホットでスウィートな人生なのだな、と思っている。