跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/03/29 BGM: 井上陽水 - 最後のニュース

今日は遅番だった。朝、図書館に行き沢木耕太郎のエッセイを何冊か借りる。そしてその中の1冊である『バーボン・ストリート』を少し読む。「奇妙なワシ」というエッセイが目を引く。このエッセイはスポーツ新聞などに載っている記事の紋切り型の表現について記されたものだが、私自身ついつい使ってしまう紋切り型の表現についてその発想の安直さを指摘されたように思い身が引き締まる思いがする。そして、私自身が抱いていた紋切り型というか偏見について考えさせられる。こうした紋切り型については最近でもチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが「シングルストーリーの危険性」という題で語っていたことでもある。つぶさに現実を見て、そこで目に映ったものをこそ信じなければならない、安易に世間に流布されている紋切り型の表現に頼ってはならない、と改めて思った。

私が信じていた偏見、あるいは紋切り型とは何だろう。例えば私は英語を喋れる人がカッコいいと思っていた。そして日本で英語の教育を何年間も受けてきたのにちっとも英語を話せない自分を端的に愚鈍だと思い込み、蔑みさえした。今思えばこの思い込みこそ愚かしいと思う。あるいは私は自分が自閉症者であることを一時期ひどく悩み、この障害のせいで自分は一生不幸だとも思い込んだ。あるいは、アルコール依存症のせいで一生酒とは無縁に生きなければならないということ(これに関しては今思えば、酒抜きの人生のほうが少なくとも自分にとっては幸せだと思う)。こうした紋切り型の発想が私の目を曇らせていたことは間違いないことだ。私が気づいていないだけで、同じような紋切り型を自分が信じている可能性は否定できない。そう考えれば自分は端的に「パーフェクト」な人間ではありえないなと思う。

発達障害について他の方が投稿されていたツイートを読み、私は「発達障害」というラベリングがもたらす抑圧について考える。知られるように今は「自閉症スペクトラム」という概念でこうした「発達障害」は語られる。人間の脳は多種多様なものであり、「発達障害」が存在しうるとすればそれはそうしたスペクトラムの中である特徴が突出して目立つことから来る、というように。つまりベースにあるべきなのは「人間の脳は多種多様」という事実だ。そう考えると闇雲に「私たちは『発達障害者』だ」と語ることはその多様な脳を「定型発達/発達障害」という二分法に閉じ込めることになり、両者の分断を促進させる方向にしか向かわないのではないだろうか。多様性を認め合い、誰もが尊重されるべき人間であるというヒューマニズムに開かれることが大事なのではないか。

『バーボン・ストリート』を読み進める。このエッセイ集には秀逸なエッセイが多数収められており、この日記にも応用できそうなネタを拾うこともできた。夜、Facebookでとある方とやり取り。そこで私自身が発達障害者としてどのような人生を生きてきたか訊かれる。2007年に発達障害と診断される前、あるいは今のようにグループホームで暮らすようになる前……私はその当時はいっぱしの大人を気取っていたが、実際のところは親に寄生して暮らしていた情けない身の上だった(そんな自分を認めたくなくてネット上で「論客」を気取ってずいぶん傍迷惑なことをした)。毎日酒に溺れ、何も生産的なことをせず……私のそんな情けない人生が、もしかしたらその方にとって何かの参考になるのかもしれない。あるいはこの日記を読まれている方にとっても何かのヒントになりうるのだろうか。そうであったらいいなと思う。