そんなこんなで本家を出て部屋にいったん戻って、ふとスマートフォンを眺めたら日本人のぼくの友だちがMessengerのグループにて面白いブログ記事を紹介されているのを知る。アン・クレシーニさんの記事で、昔ながらの日本語における年末年始・お正月にひんぱんに使われる言葉を英語でどう言い表せるかといったものだった(実に読みごたえある、力の入った記事と唸ってしまった)。すると、英語の達人の方がこれにかんしておっしゃった。餅を表す「mochi」はそのまま英語での日常会話でカジュアルに・ひんぱんに使われている、というのだった。このやり取りにも「打たれて」しまい、過去「izakaya」や「takoyaki」といった言葉が英語圏で流通しつつあるというはどこかで学んだかなと思い出した。ただもちろん、その達人の方がおっしゃるようにまだまだそれらが「mochi」ほどひんぱんに使われているとは言えないとも思う。これについて掘り下げればもっと面白い話になると思った。
その達人の方が結論として、英語で何事かを表現する際のコツとしてぼくたちにおっしゃったのは英語でいざなにかを表現する際はその言葉の「概念」の要素をつかむ努力をすることだという。つまり、言い換えれば細部にとらわれすぎず言いたいことを(ぼくなりの解釈、たぶんに我田引水な受け取り方になるが)時に「捨てる」「取捨選択する」努力も必要だということだと。そう言えば昔、『ずるいえいご』という本を読んだりして英語でなにかを言う際は「捨てる」ことが大事だということも学んだりしたっけ。ただ、それについては文字どおり「本能」「条件反射」で「これは伝えたい/これは捨てていい」と判断する能力が必要となってくる。いやもちろん慎重に吟味すべき場合もあるが、気楽な日常会話の席で話す際は相手にわかりやすくなるようにそうした「反射神経」も日々鍛えておかないといけないとも思う。それがたぶん、英語などの外国語を学んで相手に話す際の大事な骨子の部分なんだろうと思ったりした。
近所にある農協で弁当を買い、その後昼寝をした後に歯医者に行きそこで治療を受ける。その後、とくにやるべきこともなくなり部屋に戻ってぼんやり過ごす。それこそ、やるべきことはあったにせよアルヴァ・ノトの、とりわけ彼が坂本龍一とコラボした作品を楽しんだりしつつしばしくつろぐ(英語関係のミーティングがFacebookで宣伝されていて、面白そうだったが結局気乗りせず参加しなかった)。性格的にぼくはほんとうにおしりが重くて、なのに部屋でじっとしてもいられず血が騒ぐのだから剣呑な話だ。阿部昭の『緑の年の日記』を読んだりしつつ……年末年始とはいえ、ぼくは明日からも仕事なのだった。それがぼくが選んだ人生なのだから、そんな人生に殉じたいとも思っている。自分なりに忠実に。
ameblo.jp