イオンにて、ふと覗いたスマートフォンである哲学的なLINEグループにおいてこんな興味深いディスカッションが行われていることを知る。とても込み入った議論だったのでうまく説明できないが、でも試みるとこんなことになる。たとえば、ぼくはこの日記でつねづね書いているように本を読み音楽をあれこれ聴く。でも、リアルな話として(なんら詭弁を弄するわけではなく)ぼくはもしかしたらそうした読書や音楽鑑賞を行う主体ではないかもしれない、とも思う。反対に、その場合は本や音楽がぼくを選んでエンジョイさせていると言えるのではないか。いや、むずかしい話をしたいわけではない。音楽を聴いていて身体が動いたり気分が乗ったりする際、音楽がぼくを動かしているのかぼくが音楽に乗っているのかわからなくなる、ということを考える。ぼくがメモパッドにアイデアを書きつけていくと、ぼくはペンこそが勝手に自由に動くのを感じる。ぼくのコントロールを超えてペンは動く。
別の角度から……ぼくが英語を話す際、ときどき(いや、しょっちゅうだろうか)ぼくは自分の精神が勝手に作用して英語で自分の意見をあれこれ自在に言わせることに気づく(いや、ぼくの英語はそんなにスムースではないにせよ)。これについて考えると、前にも書いたことかもしれないが精神のどこかに大きな倉庫があってその中に経験や知識が所蔵されているのではないか、という気すらする。でも、それはぼくの脳みその中ではないだろう。たぶん身体のどこか、アイデンティティやそれこそ「こころ」があるところと同じような、よくわからないけれど気になるところだ。
午後になり、グループホームの本家に行きそこで届いていた書類をお渡しする。その後、もちろんワクチン接種の領収書も渡した。自部屋に戻り、そしてしばし昼寝をした後になにも面白いことを思い浮かばず、本でも読むかと思ったもののモチベーションが湧かないので気分転換に古本屋に行く(我ながら嫌になる行動パターンだ)。そこで吉田健一の文庫本『怪奇な話』を買い求めた。夜になり、断酒会に参加してそこで思いを吐き出す。プライベートな生活のイライラやもやもや、とりわけ忘年会シーズンの盛り上がりについて(ぼくの職場は年末年始も仕事があって忘年会どころではない。自分で選んだ仕事ではあるがそれでもときにはくさくさしてしまうのだった)。その後、別の英語のミーティングが控えていたが眠くなってしまい、気がつくとコトンと寝てしまっていた。