そこでぼくたちは実にさまざまなことを語り合った。宮台真司の本について、『serial experiments lain』や『新世紀エヴァンゲリオン』について、ニューウェーブ期を中心にしたロックミュージックの名作群について(たとえばパブリック・イメージ・リミテッドなんか)、精神科診療の現状について。あるいは、当時ホットな概念だった人格障害についても教わる。実はぼくはそのころは発達障害のことなんて知る由もなく、それどころか(診断されたわけでもなかったというのに、素人の生半可な思い込み・知ったかぶりというのは実に恐ろしいもので)ぼくは人格障害なのだと思い込んで、だからいつしかそのリーダーの言葉に付き従い自分の中の問題ある人格を矯正しないといけないと思い始めていた。薬の投薬は対処療法に過ぎず、自分を虚心に見つめて問題点をつぶしていく忍耐強い自律的な姿勢が必要となって、そしてそのリーダーや他のメンバーたちの容赦ない批判に耐えて自分をさらに「是正」「変革」していかねばならない、といったことを信じるようになっていたというか。いやもちろん、いま思えばその方々だってどこまで人格障害について知っておられたか怪しいかなと思うけれど(ただ、齋藤学や斎藤環といった論者の本を読んだりはしておられたようだ)、ともかく「なんかおかしいなあ」とか「ヘンな人たちだ」と思いつつ、そんな京都のミーティングを楽しんだ。
いまでも思い出せることとして、ある日ミーティングの席でぼくは両親か職場の愚痴をこぼしたことがある。当時はぼくは両親のことを嫌っていたのだった。すると、リーダーが「そうなったらもう、キミは親を殺ってしまうしかないよ。そうでないとぜったい自由になれない」といったことをおっしゃった(正確には覚えていないが、こんなことをおっしゃったのはたしかに覚えている)。もちろんそんなこと、理性的・論理的な思考を超えたことがらでありしたがってできるわけもなく、試すことはおろか想像することすらできない(両親の身体に包丁を刺すかどうにかすることなんて、考えただけで怖気立つ)。そんなことがたぶん一因となったのと、そもそもぼくは根っからのナマケモノなのでリーダーや他メンバーたちの厳しすぎる言葉に耐えられなくなったこともあって、ある小競り合いというかいさかいのあと結局決裂してしまった。いま、それなりに時間も経ち思うのは、そんなこともあったにせよ当時ぼくがそのグループと過ごせた時間をイヤミでもなんでもなく貴重な・かけがえのないものと受け取って感謝を禁じ得ないということだ。あの、職場でしごかれたりイビられたりして地獄を見て、酒でどろどろになって這這の体で生きていた時期、グループの支えなければプレッシャーで文字どおりペシャンコに「つぶれて」スクラップになってしまっていただろう。ヘタをすれば過労死か自殺してしまっていて、こんなふうに生き延びてノンキに日記を書くなんてことも楽しめていないにちがいない。
時は流れ……いま、コロナ禍でZoomなどの通信手段が注目されたこともあってか、もちろんリアル・対面のミーティングにそれ相応の「旨味」「貴重さ」があることも否めないが、オンラインで気楽に・ゆるく集まれるようにもなった。今日は夜に、Discordにて忘年会に興じる。他のメンバーの方々と俳句や短歌を詠んでみたり、チャットに興じたりした。その後、時間も経ち会を出てから阿部昭の本の続きを読もうかとも思ったが、疲れてしまっていたからかすぐまぶたが重くなりスヤスヤと寝てしまっていた。楽しい時間を実にうれしく思う。ありがとうございました。
以下は余談。今年読んで印象的だった本の数々だ。
ビオリカ・マリアン『言語の力』
三木那由他『言葉の道具箱』
沢木耕太郎『ミッドナイト・エクスプレス』
澤田直『フェルナンド・ペソア伝』
坂本龍一『ぼくはあと何度、満月を見るだろう』
刀祢館正明『英語が出来ません』
ミア・カンキマキ『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』
柴崎友香『あらゆることは今起こる』
リービ英雄『日本語の勝利/アイデンティティーズ』
林志弦『犠牲者意識ナショナリズム』
片岡真伊『日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題』
ハン・ガン『すべての、白いものたちの』
日野啓三『光』
佐々木テレサ、福島青史『英語ヒエラルキー』
梁石日『タクシードライバー日誌』
ベンジャミン・クリッツァー『モヤモヤする正義』