跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/06/24

図書館に行き、永井均『〈子ども〉のための哲学』とニーチェ道徳の系譜』を借りる。永井均のこの本は私が早稲田に在籍していた頃に愛読していた記憶があるのだけれど、今読んでも実にフレッシュで面白い。私自身は実はまだ「子ども」ではないだろか、と思うことがある。もう47歳になろうとしているというのに、思うことと言えば子どもの頃に保持していたような素朴な問いばかりだ。永井均のこの危険で深遠な書物は、そうした疑問を持ち続けて問い詰めることをこちらにけしかけてくる。また私も哲学の日々を過ごすことになりそうだ。

なぜ自分は自分自身であり他の誰かではないのだろうか、という問い。私が私という主観の内側にいて、そこから出られないという事実がこうした問いを生む。実に深遠な問いだ。私自身過去に何度もこんな問いを世界に対して問うた。私はいつも異常な存在として見なされてきたから……どうして自分は普通に振る舞っているつもりなのに結果としてこんなに変なことをしてしまうのか。そんなことを何度も考え、終いには生まれてきたこと自体が恥ずかしく忌まわしいことではないかと思うようにもなった。そんな苦い日々のことを思い出させられる。

私はニーチェを読みウィトゲンシュタインを読む。ニーチェ永遠回帰のアイデアを、私自身の「お腹」というか「身体」で理解しようと務める。永遠回帰なんて科学的に論証されたわけではないから「妄言」と切って捨てることだってできる(そしてそれは何ら無粋ではない)。だが、私は過去に仕事をしていて快感を味わっていた時にこの永遠回帰のアイデアが思い出され、自分のこの人生はここにたどり着くためにあったのかもしれないと思い、この人生を繰り返すことを祝福できればと思った。ニーチェとはそうして「身体」で理解する哲学なのだろうと思う。理屈ではなく。

人は時に私のことを賢いと言う。だが、私は自分が賢いとは思わない。私は自分自身は勘が鋭いのかもしれないと思っている。勘に任せて、やりたいと思うことをやり続けてきて今に至る。それは間違っていないようだ。仕事に関しても、読書に関しても……この世界のグルーヴというか「ノリ」を掴み、それに従って自分の次の行動を決める。それは時に脳科学や哲学の本を読むことであったり、英語で表現したりすることに繋がる。何ら戦略的ではなく怠惰に生きているだけなのに、人はそうした私の行動を賢明さの証だと言う。まあ、世の中そんなものなのだろう。