ここ最近、小沢健二のアルバムを聴き返している。『犬は吠えるがキャラバンは進む』と『LIFE』の2枚を特によく聴いている。これらのアルバムは、私にとある課題を投げかけているように思う。「普通の暮らし」を祝福できるかどうか? というものだ。何てことはない「普通の暮らし」、だがその中には濃密なこの私の記憶や感情が詰まっている……何だか保坂和志の小説のようだけれど、かつては私はそうした「普通の暮らし」を退屈だと思っていた。そうだ、日常は退屈で日々の暮らしは地獄のような、砂を噛むようなものだと。今はそんなことは思わない。日常は輝かしいものだと思う。
小沢健二「ラブリー」を聴き、スチャダラパー「サマージャム'95」を聴く。彼らは熟知しているな、と思う。時に日常はこちらに牙を剥く。だけれどもそんな日常を祝福し様々な事柄を楽しむことの重要さを彼らの作品は教えてくれる。また保坂和志の『プレーンソング』『草の上の朝食』の読書に戻るべきかと考えた。あるいは今読みかけている阿部昭『単純な生活』を読むべきかと……しょせん、生きることは無意味で人はいずれ死ぬ。だけれども私がここにいたこと、こうして生きていたことはどこかで残るのだと思う。私自身がいろいろな人々、もう出会わなくなってしまった人々から託されたものを背負って生きているように。
午後、みほげさんというclubhouseで知り合った方のルームに入りそこで「チャレンジ」というトピックについて話させてもらう。私はそんなに深いことは考えておらず、昨日ヤネさんと話したコンフォートゾーンからどう出るかという事柄について話したかったのだけれど、次第に繊細な話に至る。障害者の方が「challenged」と呼ばれていることについて、つまり彼らの苦難が「チャレンジ」と受け取られていることについて話は及び、私は「困難を乗り越える」ことではなく「困難を乗り越えない」ことこそが障害者が求めることではないか、と考えた。そんなことを話す。
夜、永井均『これがニーチェだ』を読む。この本は危険な内容を備えている。良かれ悪しかれ私の人生は私だけが歩むものだ。そして、その人生に起こることはすべて私だけが体感するものだ(仮に同じ出来事が他人の人生に起こっても、その受け取り方は違ってくるだろう)。なら、永遠回帰のアイデアに倣ってその出来事をすべて素晴らしいこととして受容できるかどうか。私はこのアイデアからウィトゲンシュタインの人生を思い浮かべた。ウィトゲンシュタインもまた自分の人生に起こるあらゆる事柄を認識することに務め、自身の哲学の糧とした。私は自分の人生の出来事をどう自分の糧にできるだろう。