跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/06/05

今日はなぜかわからないけれど眠かったので、仕事が終わってから島田裕巳『オウム』を読むか映画を観るかしようかと思ったのだけれど、夕食を食べた後横になったら眠ってしまった。起きたらもう遅い時間だった。まあ、そんなこともあるだろう。島田裕巳『オウム』を少しだけ読んだのだけれど、この問題を考えるためには避けては通れない一冊という印象(というか直感)を抱いた。オウム真理教事件については私は本当によくわからないまま過ごしたので、学び直そうと思う(大学生だった当時はテレビもパソコンも持っていなかった。スマホなんてなかった時代だ)。

オウムに関心を持ったことがきっかけで、リチャード・ドーキンス『神は妄想である』という本を読んでみようかと思い図書館で予約をした。オウムが証明したのは、神秘体験は合理的な根拠があるということではなかったかと思う。空中浮遊も幻覚も、ある条件を満たせば起こりうるものである……神がもたらす至高体験もそうして相対化できてしまうものなのかもしれない。かつて私自身、オカルトにハマって怪談の類を読み漁ったことを思い出す。『新耳袋』を全巻揃えたこともあったっけ。いや、『新耳袋』はある種の偉業だと今でも思っているのだけれど。

私からすれば、もちろん空中浮遊も幻覚もすごいことだと思うのだが、それに負けないくらい人はマジカルなことを日々行っているのだった。私が逆立ちしてもできないことを人は成し遂げる。俳句という短い形式の中で季節と情感を盛り込んで表現するとか、ダニエル・デネットのような書き手が惜しみなく体得した知性を本の中に注ぎ込むとか。今、小沢健二の「天使たちのシーン」を聞き返しているのだけれど小沢健二だってこんな10分以上もある曲の中で清らかなメロディを表現しているのだ。それは充分「奇蹟」に値するのではないだろうか。

人は、日々の中で「奇蹟」を成し遂げている。保坂和志が小説の中で表現するように。あるいはスピッツが4分ほどの曲の中で歌うように(いや、あらゆる表現者に言えることではあるが)。私が生まれてきたこともまた「奇蹟」だろう。「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」とウィトゲンシュタインは言い放った。私も、なぜかはわからないが2022年を(つまり「今」を)生きている。そして、この「今」はもう二度と戻ってこない……それは立派に「奇蹟」と呼ぶに相応しい。私はそう信じる。