跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/06/08

実は今日は休みだったので、昨日の英会話教室で出た宿題をこなした。たまたま思い出した過去の私のエピソードをそのまま英作文として表現した。40の歳、自閉症発達障害に関するミーティングの席でとある女性と出会ったこと、そしてその女性を通して自分自身が変わったこと……何だかいつも同じ話をしていて我ながら進歩がないなと思うのだけど、でもこの体験からやっと私の人生は始まったとさえ思っているので仕方がない。小沢健二犬は吠えるがキャラバンは進む』を聴きながらこなした。いったい私はいつの時代を生きているんだろう。90年代をそのまま引きずっているのだろうか。もっとも、世の中は『トップガン マーヴェリック』で揺れているようだけれど……。

昨日、村上春樹の『ノルウェイの森』が高校時代の私のバイブルだったことを書いたがそれ以外だと私は橋本治の思想を信奉していた。宮崎勤事件で揺れた1989年を論じた『89』や湾岸戦争を論じた『ナインティーズ』を熱心に読み込んだ記憶がある。その橋本治は、人が恋愛を行うのは中途半端にできあがった自分を壊す意味がある、というようなことを言っていたはずだ。私も、あの女性との出会いで読書と音楽だけで堅牢にできあがっていた自分の世界を壊し、その女性のコメントを通して自分自身を変えた。ああ、「どうせ私なんて相手にされっこない」と思いつつ彼女に告白したあの選択は、思わぬ方向に私を変えた。

図書館に行く。そして、リチャード・ドーキンスの本を何冊か借りる。自伝と『神は妄想である』など。そこで、ダグラス・マレー『大衆の狂気』という本に興味を抱きそれも借りた。『大衆の狂気』はリベラルの側の批判的な言動に冷や水を浴びせる、そんな本ではないかと思った。私は自分の思想信条は左翼/リベラルだと思っている。それゆえに(宮台真司などの論者が指摘していることでもあるが)自分の「正しさ」が行き過ぎて誰かの権利を侵害していたり、端的に非現実的な理想を押し付ける結果になっていないか考える必要があるとも思う。この本を読むことで自己批判を行うつもりだ。

トルーマン・カポーティ 真実のテープ』というドキュメンタリーを観る。カポーティという作家の書いたものは(村上春樹が愛好した作家ということもあって)時々読んできた。実に優れた作家だと思うのだけれど、少なくとも私にとってはアンディ・ウォーホルのように作品ではなく彼自身の行動力の方に惹かれるものを感じる。彼自身がひとつの媒体であり、その媒体としての彼が文学作品を生み出すのみならず社交界で面白いことを次々と成し遂げたという。そんなことを考えながら映画を観た。フィリップ・シーモア・ホフマンカポーティを演じた『カポーティ』を思い出す。あれもまた名演だった。