跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/06/18

トルーマン・カポーティは「ぼくはアルコール依存症だ。ぼくはドラッグ中毒者だ。ぼくは同性愛者だ。ぼくは天才だ」と宣言(?)した。私自身も、自分がこんなにも生きづらい思いをしてアルコール依存症に陥り、不幸のズンドコに陥らなければならないのは自分が天才だからではないかと思ったこともあるのだった。「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」……今日、ランチタイムにこの考えを弄んでみた。自分は天才ではないか……だがこの考えは自分にしっくりくるものではなかった。やはり自分は天才ではない。

かつて松本人志が、ゴールデンタイムのテレビ番組で自分の信じる笑いを追及していた頃週刊誌のコラムで物議を醸す内容の文章を書いていたのを思い出す。あるいは小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』で自分が天才であることを誇示していたこと……私はこの2人はカリスマと呼ばれるに値する表現者だと思っているが(本音です)、自分の才能をここまで誇示して人を圧倒させる生き方というのもしんどいだろうなと思ったことを思い出す。私には到底そんなプレッシャーと戦い続ける生き方は務まらない。やはり地に足の付いた、小市民的な生き方が向いているようだ。

阿部昭『単純な生活』を読み始めた。中年(私とほぼ同い年)に差し掛かった作家が自分の慎ましい生活を語り、日々を綴るというそんなコンセプトで書かれた小説だ。3度目くらいの再読になるが、実にムダのない清らかな小説だ。ある種の滋養とでも呼ぶべきものを感じる。かつては私も非日常を追及したライトノベル村上春樹、あるいは村上龍の小説を読み漁ったが今は平凡を非凡に描く小説に惹かれるものを感じている。そういえば私が知るグループホーム世話人さんがイーユン・リーの小説を読んでいるのを知る。イーユン・リーは読んだことがないので近々試してみようと思った。

考えてみれば、私はずっとそんな風にして(ある意味ものすごくエラソーな表現をするが)「普通」「平凡」「世俗」の側に立ちたいと思ってきたのだった。私が心惹かれてきたフィッシュマンズ小沢健二の音楽だってそういうものだろうし、保坂和志堀江敏幸の小説だってそういう作品だろう。橋本治が言いたかったこともそういうことだと解釈している。今、こうして息をして今を生きている、その幸せ……二度と戻ってこない今、かけがえのない今を生きることの大事さ。思えばずっと自分が生まれてきたことを恥じてきた自分が、今こうして生きることを肯定する哲学を編んでいる(つもりだ)。この不思議さもまた人生の謂だろう。