犬は吠えるがキャラバンは進む

The Dogs Bark, But The Caravan Moves On.

Life is a showtime.

LIFE

LIFE

  • アーティスト:小沢健二
  • ユニバーサル ミュージック (e)
Amazon

ここ最近ぼくは、小沢健二のアルバムを聴き返している。とはいうもののぼくもすでに今年で47になるので、感受性が硬直したせいか若い頃に聴いた『犬は吠えるがキャラバンは進む』や『LIFE』が中心になってしまう。おかしなもので、『犬は吠えるがキャラバンは進む』はリリースされた当時から好きだったのだけれど『LIFE』の方はリアルタイムで聴いてもそんなにピンとこなかった。だからそんなに聴き返さずに過ごしてしまった。今、『LIFE』のどこかやけっぱちですらあるような楽天的な空気をぼくは支持したいと思う。もちろん、人生はそんなに素晴らしいことばかりではない。それはわかっているのだけれど、つまらない日常をそのままトレースした表現にぼくは興味を持てなくなってしまった。確かに偽善的に響くのはわかっているけど、こんな「ままならない」人生だからこそ輝きを表現するというスタンスがあってもいいと思うのだ。ぼくにとっては小津安二郎アッバス・キアロスタミといった表現者の作ったものがそういう試みとして思い浮かぶ。そして、もちろん小沢健二のアルバムも。

fujipon.hatenablog.com

さて、ぼくは今日面白いエントリを読んだ。西原理恵子のことはわからないけれど(実は読んだことがないのだった)、「他人の日常日記」に興味を持つということがぼくにはわかるように思うのだ。いや、「日常日記の旨味がわかってきた」と言った方が正確かもしれない。昔は他人の日常になんて興味を持てなかった。いや、スキャンダラスな日記は面白いというのはわかる。これは賛否が割れるだろうが、永井荷風ゴンクール田中康夫塩山芳明はそういった「スキャンダラス」な書き手だろう。でも、ウェブで表現されている日記は必ずしもそんな日記ばかりではない。もちろんぼくの日記も含めて、ごく平凡なものばかりだ。今日、朝ごはんを食べて会社や学校に行って、こんなことをしてこんな本を読んでこんな音楽を聴いて……何だかテンプレを作れそうな、パターンにハマった日記ばかりだ(繰り返すが、この「パターンにハマった日記」の括りにはぼくの日記も含まれる。確実に)。でも、最近そういった日記の尊さがわかるようになったのである。

それはどうしてだろう。可能性としては、ぼくが歳を重ねたからというのが思い浮かぶ。考えてみればぼくの好みはここ最近ますます渋くなっている。地味になっている、と言ってもいい。昔はこう見えても村上春樹スティーブ・エリクソン村上龍スティーブン・キングを読みそのぶっ飛んだ想像力を楽しんでいた。彼らの世界を広く括れば「非日常」「異世界」「異常事態」を描いた作家たちということになるだろう(ハルキの場合は多分「非日常」が「日常」になる過程を描きたいのかな、と思うけれど)。つまり、ぼくはどこにでもいる「日常が退屈だ」と思っていた若造にすぎなかったわけだ。これにもう少し付記すると、ぼくの青春はオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件とバッティングする。彼らの事件が、そのまま日常を超越した次元を追究することのヤバさを暴いた、とぼくは受け取っている。宮台真司というぼくが多大な影響を受けた論者は、そんな非日常を追究することを諌めて「終わりなき日常を生きろ」と言い放った。これはぼくにとってもある種の格律として存在している。

でも、そんなふうに「終わりなき日常を生き」なければとキバって生きなければならないほど「日常」は酷いものなのだろうか、とここ最近は思い始めている。ぼくの来歴を語れば長くなるけれど、ぼくは大学は早稲田というところを出た。そんな大学まで行けばきっとバラ色の人生が待っているだろう……と心のどこかで思っていた(人生をナメていた、と言ってもいい)。でも現実はぼくは自閉症発達障害を抱えていることが明らかになり、それなりに生きづらい思いをして生きている。もっと言うとそんな生きづらさを何とかしたいと思ってひたすら20代・30代は酒に溺れた。500mlの缶ビールが1日に3本4本空いてしまう日々を過ごしたわけだ。酒に溺れながら、「日常は退屈だ」「『終わりなき日常』なんてまっぴらごめんだ」と思っていた。酒で死ねたらこんないい死に方はない、とさえ本気で思っていた。40で死のう、それまで太く短く生きようと思って、それでも40を越して47が見えてくるところまで生きたわけだ。書けば書くほど恥ずかしくなるけれど、これがぼくの人生だ。

それから今に至るまで、ぼくはシラフで過ごす努力を始めた。断酒会というところに通い、発達障害を受け容れるべく友だちとミーティングを重ね、国際交流協会の主催する英会話教室に通うようになった。そうして、普通の人の普通の体験談を聞きぼく自身がぼくの人生を語る試みを始めた。そうすると、他人の話は「どこかで聞いたような話」とナメてはいけない内実を備えていることがわかってきた。確かにありふれた話かもしれないけれど、そこにその人の感情が備わって唯一無二の体験として語られればそこにある種の旨味が生まれる。それはきっと、ぼく自身が自分の日々を書いている時にも起こっていることだろうと思う。ぼくの書けることなんて大したことじゃない。ロスジェネという世代に生まれた人間ならではの「この年になっても小沢健二の『LIFE』やスチャダラパー『5TH WHEEL TO THE COACH』を聴いている」というような繰り言ばかりだ。でも、その旨味はそんな風に頭でっかちに「退屈」と切り捨てては済ませられないものであるように思われ始めたんだ。

そして今、ぼくはもっと色んな本を読むようになった。日記ということで言えば阿久津隆『読書の日記』を好んで読むようになった(1000ページもある本なのだけれど、ぜんぜん飽きない)。あとはコラムなので日記とは違うけれど、でも書き手のその時その時の真摯な生き方が見えてくる十河進『映画がなければ生きていけない』シリーズ全6巻を2周した。桜庭一樹の『桜庭一樹読書日記』や『東京ディストピア日記』を楽しんで読むようになり、後は『中原昌也作業日誌』を読んだり青山真治『宝ヶ池の沈まぬ亀』を読んでみたりしている。他人の日記を読めるようになったことで他の人の読書傾向から学んで読書の幅を広げられるようになり、「(かけがえのない)他人の人生」に少し想像力を働かせられるようになった。おこがましいけれど、これをぼくは「(年老いたから)保守化した」と捉えたくない。むしろ「円熟した大人になった」ということだと受け取りたいのだ。もちろん批判はあるだろうけれど。

ぼくはそうして、大人になった……シラフで過ごすと、グループホームで出されるご飯がおいしい。もちろん満漢全席なんてものとは違う普通の家庭料理だが、そこには世話人/スタッフのささやかな創意工夫がありそこからもたらされる旨味がある。他人の個人的な日記というのもそうした家庭料理と同じではないだろうか。デーハーなものではないかもしれないが、日々の体調や精神状態が出来ばえに反映され旨味となる。そして、もちろん時には新しい味付けをしようとして失敗することだってあるかもしれない。逆に成功することだってあるだろう。どちらにしても、作ったことがその日得られた経験となり、その人を育てる。その成長/円熟が日記に反映されて、さらにその人の価値観や世界観が広がる。ぼくはそんな世界観の広がりや深まりを支持したい。それはスペシャルなものではないかもしれない。でも、この世の中にそんな非凡な平凡を描いた表現(堀江敏幸保坂和志の小説のような)がなくなったら、きっとものすごく味気ない世界になってしまうだろうなと思うのだ。

ふてくされてばかりの10代をすぎ分別もついて齢をとり
夢から夢といつも醒めぬまま僕らは未来の世界へ駆けてく
――小沢健二「愛し愛されて生きるのさ」