跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/03/11

今朝、久しぶりにclubhouseでジュディスさんが開いたルームに入り、そこで話をした。日記に書いた「リアリティとはなにか」「現実とはなにか」という話や今日が日本におけるメモリアル・デーであるという話をした。東日本大震災の日、私はいったい自分がなにをしていたのか思い出せない。恐らくいつものように仕事をして、そして帰って酒を呑んで管を巻いていたのだろうと思う。ジュディスさんとの話が終わるとイオンに行き、そこでエリック・サティ「3つのジムノペディ」を聴きながらぼんやりしていた。平和の意味を噛み締めたひと時だった。

永井玲衣『水中の哲学者たち』を読み終えた。実に面白い本だと思った。哲学をするということの意味についても考えさせられた。なぜ生きるのか、人生に意味はあるのか……私自身、ずっと辛い目に遭ってきたからかこういう問いを重ね続けてきたと思う。それはしばしば反社会的な問いにもつながる。例えば私たちは3.11のことを忘れてはならないのか、忘れる自由もあるのではないか、というような問いだ。なかなか難しい、繊細な作業だと思う。そんな作業を行い続けている永井玲衣という人に改めて興味を持った。

言葉を学ぶということは、その作業を通して世界に触れることであると思った。あるいは外部に触れることと言ったらいいか。どちらにしても既知のもの、安心できるものだけに自足しないで(むろん、それが悪いことだと言うつもりはない)、自分ではどうにもできない不自由な環境の中に身を晒して、そこで自分なりの意見を組み立てること。俳句を詠むようにして、英語なら英語というシステムの中に飛び込んで悪戦苦闘しながら自分なりの言葉を編み出す。世界は思い通りにならない。その不自由はでも、なかなか悪くない。

結局リフレインじゃないか、と思った。仕事に行き、そしてご飯を食べて寝て、休みの日は本を読んで……これといって変化のない平穏無事な日々の繰り返し。宮台真司が「終わりなき日常」と呼んだ、鈍い退屈を感じさせる日々……でも、その中にこそ楽しみもありうる。特に3.11を経由してしまったあと、そしてコロナ禍を通過してしまったあとは、日々の平穏さが貴重なものであること、その平穏さが多くの人々(いや、全ての人々?)の尽力によってであることが明らかになった。私も憚りながらその「尽力」の一端を担っているのだろう。今日も仕事をこなした。