今日、中島義道『ニーチェ』を読みながらふと「どうして自分は哲学をしたいと思うのだろうか」と考えた。なぜ自分自身に問いかけるのか。「よく生きる」ため? ならば「よく生きる」とはどういうことだろうか、と。かつては私も「偉くなる」や「金持ちになる」ことが「よい人生」だと思っていたのだけれど、今はそれは間違いだと思っている。いや、これは正確な言い方ではない。「私にとっては」それはしっくりこない生き方である。他の人にとってはまた違ってくるのだろう。なら、どこからそうした相違は生まれうるのだろう。
『ニーチェ』に倣って私の人生について考える。何が起こるかわからない人生。次の瞬間、自分は死ぬかもしれない……そんな未知の瞬間を生きること。言い換えれば「今」を全身全霊を以て生きること。ニーチェや中島義道が言いたいのはそんな、身体から湧き出てくるエナジーの大事さなのだろうと思う。「いつ死ぬかわからない」と思いながら生きるのは人からすれば異常かもしれない。でも、ウィトゲンシュタインのように「明日も太陽が東から昇る」ことすら疑う哲学と付き合っていると、そうした「当然」を疑う意味や重要性を学ばされる。
それにしても、どうして私はこんな風に哲学的なことを考えるのだろう。考えないで生きること、流行り言葉を使えば「鈍感力」を駆使して生きることは大事なことだ。だが、私は考えずにはいられない。私の内側から湧き出てくる思考を止めることはできない。ならば、とことん考えようと思う。例えば、自分自身は自分にとってコントロール可能な存在なのか、あるいは自分自身は他人の考えに反応して動くコントロール不能な自動人形なのか。それが私が中島義道やウィトゲンシュタインから学んだ生き方だ。生きている限り私は考え続ける。たとえその結果不幸になろうとも。
あるいは、私がずっといじめられたり変な人だと言われたりしてきたことがこうした、中島義道言うところの「哲学病」に自分を導くのかもしれない。どうあがいても人と異なることをしてしまい、変だとかバカだとか罵られて嗤われる。それでも私は自分自身でしかありえないので、この自分を守るためにずいぶん理論武装して鍛え上げてきた。今、私はニーチェ『悦ばしき知識』を読み永井均『倫理とは何か』を読む。どちらも難解な本だが、私を真理へと導いてくれるとも思う。真理……私が追いかけられるのはしかし、「私だけの」真理ではないだろうか。普遍的な真理が今もなお、ここまで分断された社会にありうるものだろうか? 「他人を殺めてはいけない」という真理すらも、今は揺さぶられている時代ではないだろうか。