跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/10/18

今日は休みだった。朝、イオンで片岡義男『日本語で生きるとは』を読む。ふと、ここで書かれている日本人論を読みながら、自分自身のことを考えてしまった。私は日本語と英語を話す人間だが、日本人らしさから自由になれたと考えたことは一度もない。流行りの言葉を使えば「純ジャパ」の人間であり、サザンオールスターズの音楽に懐かしさを感じる人間でもある。ならば、そんな人間が片岡義男の日本人批判を読む時はどこに立場を置けばいいのか考えてしまう。私はいったい何のつもりで英語を学び、日本人らしさから少しだけ離れた立場を目指そうとしているのだろう。

中島義道の本で知ったのだけれど、ル・クレジオが「たまたま地上にぼくは生まれた」と記しているらしい。この「たまたま」というところがミソなのだろうな、と思う。私も何だかよくわからないが、途方もなく金持ちでもなければ貧乏というわけでもない田舎の中産階級の家で生まれた(『王立宇宙軍 オネアミスの翼』のオープニングみたいだ)。私の生まれ育った条件はその意味で私にも選べなかったわけだ。だが、その生育の不条理から目をそらして(あるいは意識することもなく)私は生きられている。これもまた面白いことだ。

図書館に行き、鶴見俊輔の本を借りる。その後ジョブコーチのことでメールを書く。地元のミニコミ誌に載せてもらえるかもしれない文章を書く。小さな文章だが、私が今に至るまで生きてきたその過程を少し振り返る作業となった。今から10年ほど前、にっちもさっちもいかなくなって結果的に働けなくなり、実家でくすぶっていた時に車谷長吉の本を読んだこと。あの頃の読書もまた今の自分を作っている。あの頃から比べれば今は仲間がいる。そして、支えとなる仕事にも私生活にもありがたみを感じられている。それが幸せだと思う。

夜、ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』を少し読む。ウィトゲンシュタインの書いたものにまた感心が戻っている。私自身は哲学に一生を捧げられるタマではない、とも思う。もっと世俗的な成功や快楽に幸せを感じてしまうし、考えを純粋に極めるということもできないからだ。『ラスト・ライティングス』を読み返すのは久しぶりだったのだけれど、ここで展開される自問自答に(そして、その自問の過程をまざまざと書き付ける彼の執念に)息を呑む。やはり自分は彼から影響を受け続けているな、と思った。