跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/12/20 BGM: Blur - Stereotypes

今日は遅番だった。今朝、いつものように英会話関係のZoomミーティングに参加した後、さいきんボーナスも出たので満を持して買い求めてしまった後藤嘉也『世界を気遣うハイデガー』を紐解き、少しかじってみる。だが、本の中で展開されている議論はすこぶる興味深かったのだけれどやはり朝は頭が働かずうまく乗っていけない。だから、こんなことを自分に言い聞かせることとなった。まず、自分の中にあることをはっきりさせてノートかメモパッドに書き出してみる。なんならChatGPTを使ったっていい。とにかく吐き出してみる。汚く響くかもしれないが、これはぼくにとってある意味では排泄することあるいは嘔吐してしまうことにも似ている。虚心に自分自身と可能な限り正直に向き合い、そして書き出していった。

そうしてなにはともあれ本を読み、そして11時ごろこれまたいつもながらアイデアを英語でメモパッドに書き出す作業がはじまる。ぼくという生物(あるいは物体)を支えているこの存在とはいったいなんなのか。ぼくはきわめてどんくさいので、こんな感じでややこしいことをもっとややこしくするようにしてしかいろんなことを理解できない。賢い人はむずかしいことをかんたんな言葉で話す、というが(たしかに田中小実昌なんか読んでいるとその知性に舌を巻くが)、とうていぼくにはできそうにない。ただ今日は、どんなに存在の核となる部分に肉薄しようとしてもなにも見つからなかった。記憶をたぐっていくといちばん最初の記憶がよみがえる。それは4歳のころ、理由はさっぱり忘れたが坂の上から自分の住む家を見上げているという内容のものだ。

それはそうと、哲学に興味を持つようになる日がくるなんていつ予測できただろう。過去を振り返ると、ぼくは哲学に対する食わず嫌いもはなはだしくほんとうに哲学書を「敬して遠ざける」生き方をしていた。「悟性」? 「現存在」? 「コギト」? そんなの、このぼくの暮らす生活となんの関係もない空理空論じゃないかと高をくくっていたのだった。ニーチェハイデガーそしてウィトゲンシュタイン。この日記でも書いたように、過去にぼくは自分のことがほんとうに嫌いでしょうがなかったので自虐的に生きていて、「読んでもわかるわけがない」「こういうのはほんとうに賢い人向けに書かれているのだ。ぼくにはとうてい太刀打ちできない」と思って……だから、哲学書をなんの屈託もなく読める人がある意味輝かしく見えたりもしたのだった(10代のころ、学校でいじめに遭っていたことも大きかったかもしれない)。なら、いまは相当に図太くなったことになる。

さいきんリリースされたミクシィ2にて、ぼくが所属させてもらっている哲学関係のコミュニティである方から恋愛関係の哲学にまつわるコミュニティを作ってみてはどうですかと薦められた。ぼくは49だが、いまだに恋人もおらず結婚もしていない。充分に年老いたのに、いまだに愛を知らないということになるだろうか。もう老いてしまったというのにこの体たらく。だが、いまは少しばかり恋愛を知る手がかりを得られた感を抱く。このぬくもりの中にヒントがあるのかな、と。誰かを大事に思ったり、誰かのために動こうと本能がささやいたり、というように。あくまで私見を出ないのだが。