グループホームの女性の副管理者の方に以前にぼく自身が抱えている問題について話した際、なんでそんなことを吐露してしまったのかいまもって謎なのだけれど、ともあれ学校でいじめに遭ったり周囲から見捨てられたみなし児になったような気になって(さすがにいまは、こっちは錯覚と思うがともあれ)、だからその方に「甘えたかったんです」と話したのだった。信頼できる無限・無尽蔵の愛の中でとろけたいというか……そんなことを書くからといってべつだん親が毒親というわけではまったくない。ただ、昔はこんな変わり種・変人のぼくはそれゆえに「1人でなんでもできるようになって、タフに生きなければ、強くならねば」と過剰に自分を律しようとする身のほど知らずな気持ちが働いたのかもしれなかった。言い換えれば、ぼくはそうして心の中の子ども、癒やしえない気持ちをこらえて傷だらけになっているその子どもを保持したまま老いたのかもしれなかった。だから、いまでもその子が元気でいて、ケアしてほしいとかあれこれ騒ぐのだろう。いや、そんなことを言い出せばたぶん皆そうした子どもを抱えているんだろうとも思うのだが。いわゆるインナーチャイルド、と言うべきか。
ただ、なんにせよサボるというかバックレて帰宅して寝込むわけにも行かなかったので、なにはともあれ職場に入り仕事を始める。すると、オトナの要素というか人格がどこからともなく現れてぼく自身を突き動かして仕事をさせてくれた。そして、タフネスまで与えてくれた。ある意味、カッコよすぎる言い方になるがぼく自身のプロ根性(!?)がそうしたミラクルを可能にさせてくれたのかもしれなかった。こうして書き書き思うのは、ぼくはいまだに考えすぎてドツボにはまる傾向があり、したがってなんでこんなミラクルが起きるのかもわかっていないのだった。世の中そんなもの、なるようになる、というようになかなか割り切れない(いったんぼくが心の中の「哲学ゾーン」にはまり込んでしまうと、ぼくはいったいどうして日本語や英語といったわけのわからない文字・言語を使いこなせるのかまでわからなくなる)。
仕事をしていて、いったいなにが起きたというのだろうか。思い出してみる……そしてわかるのは、ただぼくは身体を動かしはじめて仕事にいそしむことにした、ということだ。すると指の動き、足の動き、手の動きといった「動き」「動作」がたしかなフィーリングを与えてくれて、そのフィーリングに合わせて「乗る」「乗せられる」ことができた。この世界の中の流れに自分も位置していて、その中ではそれこそ「大河の一滴」(とは五木寛之のベストセラーだが)として存在する。あるいは「気の流れ(エナジー・フロー)」に乗じたと言えばいいか。誰もが動き、仕事をしたり頭の中で思いをめぐらせている。車が走り、音楽が流れてきて、時間が流れていく(おそらく悠久の時間が流れ去っていく)。1人であれこれ静粛に考えごとをしていると、ついつい没頭してしまって身体を動かすことを忘れる。頭脳だけであれこれ切り刻もうとしてドツボにはまる。ありふれた言い方になるがそれでも、身体をあれこれ動かしてなにかをするのは心をリフレッシュさせるのだろう。ブルース・リーの至言「抗うな、感じろ(Don't fight it, feel it)」を思い出してしまった。
夜、友だちとのZoomミーティングに興じる。ただ、今朝方のそんなできごとが体力と気力を奪っていたのかあまり発言できず困ってしまった。すみません、木曜日(あるいは早番の日)はいつも仕事でなんだかんだで9000歩くらい歩くので、クタクタになってしまうのです……。