だが、今日は不調だったのかなんなのか理由はわからないがあれこれ考えごとをできるだけ緻密に・効率的にめぐらせようとしてもガラクタのような考えが湧いてくるだけで、なんら楽しくもなく興奮もせず逆に気分が悪くなり、そのうちに「この心臓はいつ止まるんだろうか。『いま』止まったら死んでしまう。でも、動いている……なんでだろう? なんでいままで死ななかったんだろう」なんて考えはじめてしまい、それこそ頭がおかしくなりそうになった。なんだかカフカやカミュ、フェルナンド・ペソアが書き残した断片に出てきそうな話だがホントのことだ。これ以上掘り下げてもそれこそ平山夢明の実話怪談や都市伝説みたいにひどいことが起きそうな気配しかしなかったのでやめてしまい、昼食を買い求めて自室でしばし巣ごもり・引きこもりの時間にいそしむことに決めてしまった。
ランチを食べ、しばし昼寝をして(そんなひどい強迫観念を感じていたというのに、このルーティンの昼寝タイムではちょっとだけではあるが眠れたのだった)そしてグループホームの副管理者の方にお会いする。そこで、冬服をどうするかとかボーナスの使い途とかそんなことを話し合う。その後、まだ気分は悪かったもののなにはともあれミクシィ2の哲学・現代思想的なコミュニティに断片的なアイデアを投稿する。すぐさま、他の方々からレスポンスが返ってきた。哲学的な営為(少なくともぼくの場合はたんにこうして本を読んだり考えごとをしたり投稿したりといった、それこそサルでもできそうなこと)とは、クロスワード・パズルやソリティアを解くような孤独な仕事なのか? それとも、誰かと行うコラボレーション的な意味を持っているんだろうか? たぶん、正解は「どちらも」ということなんだろうと思う。日々、ぼくは深淵にもぐってあれこれ考えを掴む。その後、その掴んだ収穫物を言葉にして他人に投げかけ磨きをかける(その過程で批判的な意見を頂戴し、議論になることもあろう)。それが(ぼくにとっては)哲学だ。
ひょんなことから40の歳、過去少しばかりかじったというか表面だけ舐めてしまっていた哲学にふたたび(わかるわけないとはいえ)向き合うことに決め、そして永井均や野矢茂樹なんかを読み……そして大学生だったころにかぶれていた中島義道の綺羅星のごとき作品とも向き合ったりしたことを思い出す。その中島義道は、世界にはどうあがいてもうまく・器用に生きられずいちいちさまざまなことがらとぶつかるしかない「哲学病患者」がいると語る。ならば、ぼくは1人の重患ということになるだろう。さっきも書いたとおり、あれこれ考えを練るとそれこそ細かく「なんで指がこうやって動いて言葉がタイプできるんだろうか(どうしたら指を動かせるのかぜんぜんわかっちゃいないし、教わったこともないのに指を動かせるのはなぜなのか)」とか考えたりする。いや、冗談ではなく本気で書いている。そんなことをあれこれ考える性分だから過去に酒に溺れたりして「絶対的瞬間(恍惚あるいはエクスタシーと呼ぶべきだろうか)」を垣間見たいとか、あるいはもう我を忘れて煩悩を捨て去りたいとか思ったりしたのだった。でも、いまはこの哲学病とつきあうコツがあれこれ掴めてきたように思う。他人とシェアし合い、背負っているものを分担していくことがそんな「コツ」の1つだと思っている。
夜になり、布団の中でサルトルの古典『嘔吐』を紐解く(『存在と無』もいつか通読したいが、なかなか歯が立たないのがトーシロの悲しさである)。だが、眠気を感じてしまいぜんぜん進まなかった。というか、あくびが止まらなくて往生した……もちろん本はすばらしい内容だということは知っている。そういうこともあるのだった。あきらめて、布団で子どもに戻ったようにぬくぬく・ゴロゴロ・ぼんやりとブライアン・イーノや細野晴臣を聴いたりしつつ過ごす。おかしな話だが、布団の中でそれこそ溶けそうな気分に浸っていると今朝方感じたようなそんな強迫観念から解放され、恐れも感じなかったのだった。まあ、そういうことなんだろうと思う。それもまた人生の醍醐味かな、と。