跳舞猫日録

Life goes on brah!

中二階日記(2022/06/27)

某月某日

中島義道ニーチェ ニヒリズムを生きる』を読んでいる。中島義道はこの本で、ニーチェの哲学が解毒あるいは消毒され、危険性を抜かれて解釈する日本の風土を口を極めて批判する。私もまた、口当たり良く解釈されたニーチェを読みそこから元気をもらおうとするある種の浅ましさがあることを恥とともに認めなければならない。今回の読書で、中島義道ニーチェを引いて「よく生きる」ことの意義を問い直しているのが気になった。「よく生きる」とはどういうことなのだろう、と思い始めたのである。一見すると簡明なようで、この問いを「自分の頭で」考えるとどうもいい答えが出てこない。

いずれ死ぬ。それが私たちの宿命である。中島義道はこの事実を直視する。私も彼に倣ってその事実を見つめよう。私がいずれ死ぬなら、どうしたってその宿命から出られないなら「よく生きる」ことを考えてもムダではないか、という答えが導かれうる。かつての私もそう考えていた。「どうせ死ぬ」と思い、いやそれどころか「生まれてきたことそれ自体にも意味なんてなかった」と思い、あるいは「自分がここにこうして存在すること自体が『間違い』なのだ」と思い、40で死ねたら本望と思って酒に溺れたのである。

今、酒を断って7年目。もちろん「いずれ死ぬ」の宿命をクリアできたわけではないが、私は今の自分自身の生き方を呑んだくれていた頃よりも「よい生き方」だと思っている。これはもちろん、私の行いが何もかも絶対的に正しいということを意味しない。変なことだって言うし、ミスだって数え切れないほど犯す。だが、中島義道の用語を借りて言えばそうして過ちを犯す過程で自分を「鍛える」ことに意義を感じているということだ。もちろん、どんな風に自分を鍛えようが私は「いずれ死ぬ」。死んだらこの身体も精神も消滅する(のだろう、多分)。

だが、ここにこうして存在する私という主体が濃密に「幸せ」「快感」を感じ、人にそれなりに幸せを与え貢献できている(と信じる)。その満足感は理屈にはならない。ものすごくフィジカルな、スポーツや食事で感じる「身体」でまるごと得られる快感に似ている。もちろん、これは私という個人性から遂に出られない快楽である。酒鬼薔薇聖斗宮崎勤にはまた別の快楽の回路がありえたことを考えれば、私のこの繰り言が人を納得させられるとは思わない。しかしそうであるならなおのこと、私は「わかってもらえないのが当たり前」と思って自分の哲学を差し出す暴挙に出るのだった。ちょうどニーチェ中島義道がそうしてきたように。