今日は休み。昨日の夜は今日ゆっくりできるからと油断して、いつもなら11時に消灯するところを12時まで起きてしまった。そのあいだスマートフォンでSNSをチェックしてしまったり、ロバート・ノージックの文庫本『生のなかの螺旋』を読んだりしていたのだけど、それがいけなかったみたいで今朝は4時半頃目が覚めた。それで、寝直すにも目が冴えて眠れなかったので「まあ、今日はいいや(休みぐらいまったりしよう)」と開き直る。そのままYouTubeでTEDトークなどの英語のコンテンツを視聴しててきとうに時間をつぶし、7時頃になっていつものようにシャワーを浴びて洗濯機を回す。そして7時50分より英会話のZOOMミーティングに参加する。
今日の話題は「歴史において信じられがちなトリビアの正誤」についてで、たとえば万里の長城が月から見えるというのはガセネタらしい。参加されたほかの方々といっしょに「日本でさいしょに鉛筆を使ったのは徳川家康だとか」といった話題を英語で話し合う。博識の参加者の方々の英語に唸りつつ、楽しく時間を過ごせた。その後、朝食を摂りそして睡眠不足を感じつつも外出する。まずは図書館に行き、そこで村上春樹の『約束された場所で』などを中心に本を借りる。その後は銀行に行って給与を下ろしてからグループホームに向かい、そこで出勤されていた副管理者の方に利用料などを預ける。これでホッとひと息。その後は脳疲労のことを相談し、そして分家であるぼくのグループホームに戻ってセブンイレブンで買ったパスタを昼食としていただく。
その後正午を回ると、やはり脳疲労や睡眠不足がたたってのことか眠くなりしばし午睡してしまう。そして目が覚めると午後2時を過ぎていた。さすがに頭のほうも眠ったからかシャキッとしてきたので、午後は読書タイムに費やす。目に留まった國分功一郎『暇と退屈の倫理学』とさっき書いた『約束された場所で』を交互に読む(ここまでで察された方もおおぜいおられると思うけれど、ぼくは1冊の本を「読み通す」ことにさほどこだわっていない。どんな傑作・名作だろうと飽きたら平気で投げ出すし、1度に数冊の本を同時に読もうとしてしまい挫折することもザラである)。ポケットからメモパッドとフリクションペンを取り出し、そしてすこしずつ思いついたことを英語で書きつけていく。
『暇と退屈の倫理学』は以前に読んだことがあったので再読ということになるのだけれど、たまたま今朝視聴したYouTubeのビデオの配信者も退屈をめぐる心理について「退屈を耐え抜く力を養うには」という視点から語っていたことを思い出す。退屈(國分はこの言葉を「暇」と厳密に区別している。けっして同一視していない)に悩む、というのはでもなんだか「ぜいたく病」にも聞こえる。げんにぼく自身「退屈しのぎ」を知らないわけではない。バカらしいと思いつつもSNSにうつつを抜かすなり、いまならChatGPTなどのAIと戯れるなりやり方はいくつもある。紙の本を読んでもいいし散歩も悪くない。
ただそうした「退屈しのぎ」はなるほど「一時的に」刺激をあたえてくれるし楽しいとも思わせてくれるけれど、でもふと「我に返る」というか「冷める」瞬間というのもあるのだから剣呑だ。あるいは、「退屈」とはそうして逐一つぶしてもつぶしてもまたどこかから湧いて出るやっかいなものとも言える。そうした「退屈」との向き合い方について國分はさまざまな哲学者の議論を引きつつ分析していく。「退屈」をめぐる概念がどう変化したかを、時にマクロな視点から見渡してみたり時に緻密に哲学者に異論を投げかけたりしつつ迫っていく。ストレートで中だるみのない展開に惹き込まれてしまった。だいじに読み進めていきたい。
いっぽう村上春樹の『約束された場所で』は――これも再読なのだけれど――村上がオウム真理教事件と真正面から向き合って書いた『アンダーグラウンド』と対を成す作品だ。オウム信者へのインタビューをとおしてオウムという団体がどのような実体を持っていたのかせまっていく。この作品にかんしては悲しいことに(あるいは恥ずかしいことに)「なぜぼくはオウムに入らなかったのか」といったかたちで自分に極度に引きつけて、そこから「自分語り」に落とし込む読みしかできそうにない。つまりこの作品のノンフィクションとしての古典的な完成度や、あるいはこの作品から浮かび上がるオウム像を社会学的に分析することができない。その点ぼくは徹底的に素人に過ぎない。
それを許してもらえるなら、今度もまた「なぜぼくはオウムに入らなかったのか」という問いがぼくにとってなまなましく感じられる読書となっている。明白な事実としてぼくの中には村上の語彙を使うなら未知の「無意識」「ブラックボックス」が存在する。思い切りひらたく言えば、その自分ではどうにも管理できない「ブラックボックス」(「闇」とも言えるかもしれない)を抱え込みつつじょうずに生きるのが大人のやり方となる。ぼく自身、自分の中にとてもここには書けない「ブラックボックス」があることを自覚する。そして、その「ブラックボックス」の存在ゆえにしょっちゅう矛盾した行動をしてしまうことも。だが、ならばその自己の中の矛盾をどのように受け容れていったのか。あるいはほんとうに受け容れられているのか。それを問いかけていくとどうしたって上に書いた疑問にぶつかってしまうのだった。
夕食を摂って後、リモートで2026年初の断酒会に参加する。そこでほかの方々の体験談を聞かせてもらいつつ、自分自身の年末年始どうだったかという体験談と酒におぼれていた頃の反省を語る。その席で、アルコール依存症者の平均年齢が52歳という話を聞かせてもらう。ぼくはことし51歳だけど、その事実を知らされるといままで生きてこれたことやこれからも生きられること(とりわけ、酒抜きの「心おだやかな生活」を味わえること)がありがたく感じられる。それが終わって後、『約束された場所で』の続きを読む。いやはや、我ながらこんなに読んでどうするんだろう?
