遅番明けの朝、なぜかまた4時頃目が覚める。目覚めた後というのはたいてい脳がリフレッシュされたいわゆる「ゴールデンタイム」だと思うのだけど、ぼくの場合はそうかんたんな話でもなくなにをやっても集中できず、だからといってまた頓服を飲んで寝坊するのもバカらしい話なのでけっきょく寝直すことにした。こんどはうまく二度寝できてちょうど7時頃目覚めることができたので、シャワーを浴びて洗濯機を回し7時50分からの英会話のZOOMミーティングに参加できた。今日の話題はある分野で一流に達するにはいつ始めればいいのか(若い内に始めなければならないのか)という話題で、これは40歳になって英語とのくされ縁をあたため直して10年間続けてきたぼくにとって意義深いテーマなので昨日から楽しみにしていたのだった。
DMM英会話が提供するサイトが語るように(有名な話かもしれないが)、「何かに熟達したいなら、1万時間の練習が必要」というのが定説だ。いつもながらうっとうしい「私語り」で恐縮だが、ぼくはさすがに英語と触れ合って1万時間を費やしてきたとは言えない。したがってぼくの英語は一流ではない。世の中には歴然とした「才能」というものがあって、ぼくなんてその「才能」がからっきしないから英語と日本語の2か国語さえおぼつかないありさまだけどできる人はそれこそメジャーな言語からマイナーな言語までマスターしてしまう。そういうのはたしかに不公平な話だ。でも、ここで肝に銘じておくべきなのは「どんな人でも『今日のささやかな努力』をコツコツかさねることから1万時間に達した」ということではないかと思う。ぼくはもう五十路。これからかさねてもたかが知れている。でも、今日もぼくは40分のZOOMミーティングを楽しむ。
そのZOOMミーティングが終わった後、10時より仕事に入る。今日は比較的ゆるやかな雰囲気だったのでいつもどおりこっそり英語で紙切れにメモを書き、それを昼休みに広げてぼくのメモパッドに写していく。ところで、この日記は誰に読まれているんだろうかとふと考え込む。なんだか昔話(大学生時代と40代の話)と、あとはぼくが発達障害者であることからくる苦労話がどっさり入った日記になってやいないかと心配する。そこからややもすると苦労自慢の匂いも立ち上っているかもしれない。高田純次はこの「昔話」「苦労話」「自慢話」を老人にありがちな悪習とスマートに指摘していたっけ。この言葉をいま一度自分に言い聞かせる必要があるのかもしれない。
紙切れに書いた内容は、仕事中は意識があさっての方向に行っているようでなんだかいま読み返すと自分でもどうしてそんなことを考えたのかよくわからないが、またしても若い頃のことだった。たぶんに朝のZOOMミーティングの席で自分の若い頃のことを振り返ってあれこれ考えたことが尾を引いていたのだろう。まだインターネットが広く行き渡っていなかったあの頃(30年以上前になるか)、ぼくは田舎町の進学校から東京の私立大学に進学した。当時、ぼくは友だちを持たずしたがって独りぼっちで本を読んで過ごすことが多く、バイトもしてなかったので知識はたくわえられてもそれを人との対話・議論で練り上げる作法を身に付けられなかった。コミュニケーション・スキルが育たなかったのだ。
たいていの若者は人とぶつかること、そして時に他人から理不尽なあつかいを受けることで対話の作法を学ぶのだろう。でも、ぼくはそれを身に着けられず苦労した。折しも時代はオウム真理教が起こした事件が大々的に注目されて、それでぼくも「どう生きたらいいんだろう」「ほんとうにだいじなものはなんだろう」とあれこれ考えるようになる。そこから宮台真司の本を読み漁ったりしたっけな、とも思い出した。そんなことを英語でメモパッドに書きつけて、それで達成感をあじわう。自己満足というやつだ。
仕事が終わり、帰宅途中に図書館に寄り何冊か本を借りる。その後、帰宅して夕食を摂った後未来屋書店で見かけて興味を惹かれた先崎彰容『知性の復権』を読む。まだ1度しか読めていないので、この好著をぼくはもっと深く深く読まねばならないだろう。だが蛮勇をふるっていまの段階の粗い感想を書かせてもらうなら、いまのアメリカや日本を支配するある種の閉塞感を実にうまく説明していると思った。ぼくはしがない一労働者であり政治についてなんら専門的な教育を受けた身でもないのだけど、そんなぼくでも先崎氏の整理は納得できるものがあった。
ひらたく言えば、いまという時代がアイデンティティ喪失の時代という整理になるだろう。ネット社会が承認欲求に火を付け、人々が虚像を追う内に自分ほんらいの姿を見失ってさまよう時代が訪れている。そこでは公的な自己(ぼくの場合なら「一会社員」)と私性(「発達障害者」「日記書き」などなど)が時にはげしく分離し、それに耐えられなくなった存在が暴力性を発揮する――以上、あくまで片鱗だけ書いてみたけれどこうした「公と私」をめぐる議論はぼく好みでもあるので、類書を読んでもっと考えを深めてみたいと思った。
ただ、これはあくまで素人のとんちんかんなケチつけになってしまうのだけど先崎氏の描くヴィジョン(保守の立場から「公」を復興させ、その「公」に裏打ちされた「私」を育てると言うべきか)にはだいじなものが登場していないなと思った。それはこれから否応なく向き合わなければならない「移民」たち、ぼくたちとかならずしも文化的コードを共有しない「外国人」たちである(柄谷行人的に「他者」と言ってもいいかもしれない)。そこまで掘り下げられていたらもっとおもしろかったと思うが、これはこの本を託された「ぼく個人」がしつこく考えるべきなのかもしれない。
ケチをつけたからと言ってこの本をおとしめる意図はない。今年に入ってこうした刺激的な本といろいろめぐり逢えることをこの上ない僥倖に思う(げんに、先崎氏の過去の著作を拝読したくなったのでさっそく図書館に予約を入れ、ついでに本書で重要な役割を果たすフランシス・フクヤマ『リベラリズムの不満』も借りることにした)。ただ、こうしてあれこれ考えを深めないと気が済まないのだ。悪いくせだなあ、と汗顔の至りだ。
