単純に言って、こうしたことを書けるのではないかと思う。ぼくはある種の暗闇を心のなかに宿している。それは暴力的で混沌とした核だ。もちろん心の話だから物体として眺める・拝むことなどできないが、もし観察できたならぼくはそこに燃え盛り煮えたぎるマグマの如きなにかを見出すことができるかもしれない。その中には、それこそ春樹がこれまで作品の中で何度も扱ってきた要素でもある、あるどす黒い感情が存在するのだろう。つまり「憎悪」だ。学校中のクラスメイトたちに憎まれいじめられた過去を持つぼくは、ゆえに愛するということがどういうことなのか誰からも教わらなかったので心のどこを探してもそんな「愛」を見いだせず、あるいはそんな感情があったのかもしれないがそれに自信を持つことも社会性あるかたちとして発露することもできず、ほんとうにつらかった。その代わり外部から「憎悪」とはどういうものなのかをたっぷり学ぶこととなった。
今日は遅番だった。仕事中、上に書いた感情の固まり「憎悪」と戦う羽目になった。反復的に「お前はこの世界から消えてしまえばよかったのだ」とそそのかす「憎悪」(もしくは「被害妄想」)だ。このことについて考えれば、まだぼくは心のなかに癒えない傷を抱えていてその傷が「やっちまえ」「とっととやれ」と妄想的・破壊的なメッセージを送り続け・けしかけさえしていることに気づかされる。「憎悪」、理性を欠いた暴力的で本能的で、原始的な心の働き。その「憎悪」は「屈服して、私と一緒になりなさい」とまで言う。
誰もが知るように「憎悪」の対義語は「博愛」だが、この「博愛」と「憎悪」の矛盾した関係について考えると文字どおり気が狂いそうになる。いま、50を迎えようとするぼくはもしかしたら過去とは違って誰かを愛することができるかもしれないと思う(たぶんにそれはでも、三島由紀夫『仮面の告白』の主人公が行うようなとても虚栄心に満ちた、頭でっかちで戦略的な愛だと自分勝手に思ってしまう)。そして、ぼくは自分自身について、あるいは自分の中の有害な感情の働きについてそれを外部の不条理で理性を欠いた動きから守ることができるとも思う。でも、どんなにぼくが熱心に・つとめて公に謙虚さをぼくなりに示して誰も傷つけないよう心がけたとしても、外部はそんなこと知ったこっちゃないのだった。
申し訳ない。今日どんなことがあったか、それを具体的に書くことはできない。ここまで書いたことから推し量ってほしい。