単純な生活

Life goes on brah!

20260108

ここさいきん不眠傾向が続いているので、それで昨日は頓服の眠剤を増やしてみた。それで床に就いたのだけれど、起きてみると午前4時ぐらい。それでXのタイムラインを眺めたり(東浩紀の近著『平和と愚かさ』の評判が良いことを知り、近々『訂正可能性の哲学』ともども読んでみようと思った)昨日観たYouTubeの英語の動画を字幕なしでもう一度眺めたりしたのだけどなんだか身が入らない。それでまた床に就いたところこんどはすんなり眠れて、気がつくと朝7時10分頃になっていた。眠り足りないと言えば足りないけれど「まあいいや」と思ってシャワーを浴びて洗濯機を回し、7時50分からの英会話のZOOMミーティングに参加する。

ZOOMミーティングでは、ブレイクアウトルームにランダムに割り振られたメンバー同士がまずはアイスブレイクとしておのおのの話をする。こんかいはぼくがZOOMの背景画像として使っている、去年の暮に作ったマインドマップの画像について話がおよぶ。マインドマップといってもなじみのない人もいるかもしれないけれど、まず真ん中にメインのキーワードを書きその周囲にサブキーワード(メインのキーワードから思い浮かんだ言葉)をどんどん書いて思考を広げて整理していくというのが主なやり方だ。ぼくの場合はなにかのウェブサイトで「イラストを盛り込むのもいい」と書いてあったのでそれに忠実にやってみたのだけど、お褒めの言葉をいただけてそれがうれしかった。その後、今日の話題である「セブンイレブンが売り出した抹茶ブリトー」の話を英語で楽しんで終わった。

ところで、これはあまり深刻に捉えないでほしいのだけど実を言うとぼくはこの歳になっても自殺願望というか、もっと言えば甘美な妄想として「死にたいなあ」と思ってしまうことがある。もちろんいままでぼくは生きてきたわけで、そうした「死にたいなあ」にかんしていちいち向き合うのもバカバカしいのでたいていは「とにかく人と会おう」「部屋を出よう」と思ってえいやっと行動を起こして気分を変える。アントニオ猪木的に言えば「汗をかく」「恥をかく」ことを自分に強いる。すると、そうした甘美な妄想はつかの間遠のく。ただ、これを書いているいまでもどこかで「死にたい」という気持ちが意識の底に眠っているのを感じる。

今日は休み明けの仕事でそれでプレッシャーを感じていたというのがあって、それで「死にたい」というネガティブな気持ちがなかなか晴れなかった。それがあってか、「死にたい」という気持ちからふとピチカート・ファイヴの歌を連想したので今日は仕事中はずっとピチカート・ファイヴのことを頭の片隅で考えていた。知られるように彼らの曲はいっけんすると洗練されたサウンドとおしゃれなアイテムをふんだんに盛り込んだ歌詞に見えるが、いっぽうではあちらこちらに「死」という要素を散りばめている。10代の時にはじめて聴いてショックを受けて以来、おおげさになるが「死」を考える際にこうして連想する1つのソースとしてぼくの中にはある。

彼らにとっての「死」とはなんだったのか。ぼくは中心人物の小西康陽の発言はそんなにたくさん追えていない。『これは恋ではない』や『ぼくは散歩と雑学が好きだった』『わたくしのビートルズ』といった著書は読んだことがあるけれど、でもここにピチカート・ファイヴのそうした「死の匂い」の秘密を読み取ろうとするのもちがうような気がする。ぼくはピチカート・ファイヴの歌詞はやや陳腐ながら文学的で良質なものと信じて疑わないが(もっとも、その陳腐さこそが「計算ずく」「戦略性」という読み方もできるとも思うが)、あんがいそんなに深い意味なんてない「レディメイド(お手軽)」なつくりのものではないか、とも思う。深読みすればするほどバカを見る、というか。

でも、そうしてピチカート・ファイヴやあるいは昨日書いた村上春樹をとおして「死」や「(自分の中にあって永遠に切り捨てられない)闇」を見つめることはけっしてバカバカしいことではないと思うのだ。なんだか暗黒面に堕ちそうな話だが、ぼくの主観的にはむしろ「日々こうしたネガティブなことを考えることが『致命的なエラー(自殺など)』からぼくを守ってくれる」とも思う。ぼくは本気で書いている。ぼくにそうしたネガティブなことを考えさせる原因がなにかわからないけれど、たぶんこれは薬や森田療法的なやり方では片付かないたぐいの、生きている限りつきまとうものなのかなあと思っている。それはそうと、ぼくは高浪慶太郎がいた頃のピチカート・ファイヴが好きなので彼が脱退してからのピチカート・ファイヴはそんなに深く掘り下げられていない。

ざっとそういったことを仕事中にメモし、そして昼休みにメモパッドに英語でまとめる。仕事が終わって後、帰宅して夕食を摂ってから数人の友だちと毎週木曜日恒例のZOOMミーティングに参加する。今日は新年初のミーティングでとくにテーマを決めない雑談が主だった。年賀状文化の衰退やあるいは飲酒する人口が減ってきていること、あるいはゲームやパチンコに興じることが人生のムダと言えるのかどうかについて話し合う。飲酒ということでならぼくも過去に病的なほど呑んだくれた時期があったので、ミーティングの最中に過去の自分自身の醜態を思い出させられ胸が痛む。ぼくにとってはあの飲酒にふけっていた期間(20代・30代)はまぎれもなく貴重な時間と金をムダに浪費したと感じる。ただ、いまそれを嘆いてもしょうがない。40代からまじめに時間を費やして打ち込めるものが見つかったというのは「遅すぎる」部類かもしれないが、ただこうしたかたちであの辛い・痛い日々の教訓を生かすことには意味があると思った。

それが終わると、畠山地平の『ミニマ・モラリア』を聴きつつ以前に読みかけたまま止まっていた國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読む。期せずして上に書いた「死にたい」という気持ちについてこの本は処方箋を提供してくれているように思う。もうだいぶ字数も長くなったのでそれをつまびらかに書くことはできないが、自分自身の内側から沸き起こる「退屈」という要素とどう向かい合ったらいいか(向き合うことはできるのか)考えさせられた。