今日は遅番だった。今朝、いつもながら英会話関係のZoomミーティングに精を出す。今日の英会話のテーマは動物園全般の長所と短所(メリット・デメリット)だった。つまり、野生動物たちの生きる権利について。毎度毎度同じことを書いてしまうが、それでも嘘いつわりのない事実としてこのミーティングではそれぞれ参加される方々の英語力にいつもうならされ、自分はまだまだだと反省させられている。いや、ぼくの場合はただ英語を趣味の一環としてやっているに過ぎないのでそうした甘さもあり自分の英語力にいまだ自信を持てなかったりする。他の方々はその点、実に流暢な英語を話されるのでそのテクニックに唸らされてしまうし彼ら自身の「豊かな」「肥沃な」人間性というものも見えるように思う。こうした場が成り立つのはほかでもなく(そして、いまさら言うまでもなく)管理者の方々の尽力ゆえ。あらためて感謝したいと思った。
そのミーティングが終わって後、朝食を摂った後にグループホームの本家におもむく。そこでぼくは今日は村上春樹が地下鉄サリン事件を題材にあつかったノンフィクション『アンダーグラウンド』を楽しむ。というのは、あれやこれやで読み進めていた『ねじまき鳥クロニクル』も最終巻を残すのみとなったが、これを部屋に置き忘れてしまいかわりにこの本をカバンの中に入れていたのだった。ソウル&ファンクの名曲群(スティービー・ワンダーなど)を聴きつつこの本をちまちま読み進めて時間を過ごした。
『アンダーグラウンド』があつかうあの地下鉄サリン事件は1995年に起こったのだという。そんなに昔の話になるのか、とあらためて感慨にふける(いや、こういう書き方はもちろん巻き込まれた方々に失礼か。申し訳ない)。このノンフィクションの巨編をはじめて読んだのはぼくが大学生だったか、それとも卒業してまもなくだったか。とくにそんなに感銘を受けたわけでもなく、むしろ実に長ったらしいとも思い退屈だとさえ感じた。これは正直に書いておきたい。だが、だからといってこの本を「駄作」とも切り捨てられない。ぼくの感覚はたぶん人と違うのかもしれない(だからぼくの場合、この『アンダーグラウンド』のあとに出た『約束された場所で』というオウムの信者たちに肉薄したノンフィクションの方を好んで読んだ。つまり、サリンガスを撒いた当事者たちがいったいなにを考えていたかについてぼく自身「もしかしたらオウムに入っていたかもしれない人」として興味を抱いたわけだ)。
もちろん午前の何時間かを費やしただけなのでこの『アンダーグラウンド』をまだ全部読めていないが、それでも興味を惹くのは春樹がオウムの行為をめぐって「暴力」というキーワードを用いていることだ(ただ、これは海外ではどう英訳されているのか気になったりもする)。春樹はそうした言葉づかいをとおしてオウムの行為が社会への「侵略」「攻撃」であると見なしているようにも見える。もちろん、まだ全部読めていないので即断・早とちりの可能性は大だがそれでもぼくはこの態度に賛同したい。ただ、それを踏まえたうえで言えばぼくの場合はさっきも書いたように「ぼくの中のオウム」「内なる『さまよえる魂』」といったものがまだ救いを求めてうろうろしてしまう、そんなことを考えてしまうようだ。もちろん地下鉄サリン事件を断じて許したいとも思わないし、オウムに入るか入らないかという話になるともちろん「ノー」と言うしかない。ただ、それはそれとしてオウムのメンバーにそれなりに(あやうい)興味を持ってしまうのもたしかだ。ここで境界線(バウンダリー)をきちんと引かないといけないんだろうな、とも思う。
そんなこんなで読書タイムを終えて、紙片があったのでそれにいたずら書きを楽しむ。その後、それをWhatsAppやWeChatなどのソーシャルメディアをとおして拡散し友だちに見せて感想を乞うたところ、総じて評判がよかったのでうれしかった。時間があれば明日、スケッチとペンを何本か買ってこうしたいたずら書きをもっともっと楽しみたいと思った。
