朝、例によって7時の起床時間を少し越えて目覚める。その後いつもどおりシャワーを浴びて洗濯機を回し、7時50分からの英会話のZOOMミーティングに参加する。毎週日曜日は特にこれといったお題を設けず自由闊達に話し合う「フリートーク」の日なので、したがって予習は要らない。参加された方々に対しまずはぼくが先日水曜日の活動(ある高校にて、現地と台湾の高校生たちの異文化交流会のボランティア・スタッフとして赴いたこと)について話し、そこから自由に会話が広がっていく。
今日のZOOMミーティングに参加され、ブレイクアウトルームでいっしょになったほかの方もそうした異文化交流については一家言ある方々で話がはずむ。すっかりぼくもこのZOOMの雰囲気に慣れてしまったせいか、頭の中で英語と日本語を往還させて理解していくのではなく英語を英語としてそのまま聞き取り・受け取ることができるようになったみたいだ。こんなことは英語をやり直そうと決めた10年前の40歳の頃には想像もつかなかった。ぼくの学習スタイルはきわめて「まったり」というか「ちんたら」としたものだけれども、それでも日々続けていくと「英語脳」というものはできあがっていくのかもしれない。
今日学んだこととして、参加された方がパンフレットのことをそのまま「pamphlet」と表現されたら「それは"brochure"ですね」と訂正される一幕があった。実際にあとになって復習を兼ねて調べてみたところそのとおり「brochure」と表現するのが正しいらしく、50歳になってもまだ学びの余地があるものだなあと(いや、あたりまえのことなのだけれど)感嘆してしまった。それ以外にもほかの方々の表現が学びの滋養の多いものばかりで、たとえば「華僑(Overseas Chinese)」も英語でどう言うか知らなかったのでこの機会に学べればと思った。いや、もうこの脳はすっかり初老のポンコツなのだけれど……。
その後、10時より仕事に入る。1時に昼休憩を取るまでのあいだ、いろいろなことを考えた。ほんとうはいけないことなのだけれど、仕事中にこっそり私用のメモを取ったりスマートフォンをチェックしたりして心を落ち着かせる。ぼくにとってずっとメンター(指導者・先導者)であり続けているある女性がぼくの活動にかんして、「多くの方々とつながりを得て活動し続けられているのがすごい」「若い人の励みになっているのでは」とおっしゃったのをLINEのメッセージとして読んだ。そういうものなんだろうか。
ぼくは自分のことをすごいと思うことはなく、むしろ自分の矛盾や衝動や違和感・異物感にたいして「どうしてもっと周囲とうまく溶け込めないんだろう」「どうしてもっとうまく生きてウハウハな人生を送れないんだろう」と考えてしまいがちだ。ほんとうのぼくはもっと混沌としていて非論理的な情熱がマグマのようにうごめいていて、それに突き動かされてバカなことを始終やっている。ぼくの知る限りぼくはもっとも無計画で刹那的な人間だ。たぶんそれは発達障害も影響しているのだと思う。
「すごいということ(『すごい人』の意味)」ということで言うと、ぼくはまた宮台真司のことを思い出す。宮台真司は「すごい人」とは「端的な『衝動』に突き動かされている人間」と語る(『日本の難点』p.92)。せこいエゴイズムを越えて、なんらかの天命に則ってグイグイ生きる人間こそなんらかの人知を超えたすごさがあるということかもしれない。ならばぼくは実にせこい人間である。ただ、せこいなりに(我が身のかわいさや弱さに打ちひしがれたりするにせよ)自分に忠実にあろうとする姿が「すごいなあ」と思われるのかなとも思ったりした。
まあ、ぼくのことはどうでもいいとして「ぼくから見てすごい人(あるいはすごかった人)」とは誰だっただろうとあれこれ考えてみる。ぼくからすると、もちろん悪評高い人であることは知っているもののそれこそ宮台真司の考え方・論理からは多くを学ばせてもらった実感があるし、あるいは橋本治や村上春樹や沢木耕太郎や内田樹からも多くを学んできた実感を持つ。特に村上春樹からはほんとうに多くを学ばせてもらったので、ジャパン・ソサエティー賞を受賞したとかいうニュースにいまだ心がときめくのを感じる。
あるいはぼくが20代から30代にかけて一時期交際させてもらっていた自助グループの方々もこの社会の中で真摯に生きる道を探っているすごい人たちだったという印象を持つ。いま、ぼくのそばに居てくださる方々ももちろんすごいと思う。周囲がそんなふうにすごい人ばかりだと意外とぼくもフックアップ(吊り上げられること)されているのかもしれない。そういうものなんじゃないだろうか。
過去、それこそ宮台真司みたいな知性に追いつきたくて読めもしない・わかりもしない本をたくさん読み、なんとか自分なりに彼の論理を消化しようとしたことを思い出す。そんなことしなくてよかったのだ。すくなくともぼくのいまの考え方は宮台真司を虚心坦懐に読むだけで得られたものではなく(いや、察しのいい方ならお気付きのとおりぼくの理解力は壊滅的だが)、仕事をしたり英会話を学んだりして培われたものだ。生きていれば、しぜんと経験知というものは得られていく。そういうものかなあと思う。もっとも、こんなのんきなことを言えるのはぼくがもう50歳で「あがり」に達してしまったからかもしれない。
夜、仕事が終わり図書館に行く。今日から3週間・10冊まで貸し出し期間・冊数が伸びるのでさっそく川本三郎『荷風の戦後』上下巻や『陽だまりの昭和』などを借りる。スペイン人の女友だちが「スペインの作家は誰か読んだことある?」と質問してきたので、そのこともあってオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』も借りたりした。年末年始、どうなることやら。
