跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/12/14 BGM: James - Seven

今日は早番だった。思い出すのは、あの思い出深き・思い出したくもないコロナ禍「以前」、そして少なくともいまのようには頻繁にはZoomなんかを使った「リモート」な会議やその他ミーティングなどが楽しまれていなかったころ、ぼくは英語話者を見つけてそして実際に「スピーキング」のスキルを向上させるのにとても骨が折れたことを思い出せる。日本では英語が喋れなくてもなんとか日常生活をこなせる以上、そんな中で英語を学んでいる人を見つける第1段階からしてまずむずかしかったのだ。もちろん当時もぼくはスマートフォンを持っていて、そのアプリケーション(たとえばLINEや、一時期なんだかよくわからないままに流行ったclubhouseといったアプリ)を使えば英語話者を見つけられる。だが、コロナ禍「以後」になってぼくはご多分に漏れずZoomをオンボロのパソコンをとおして使いはじめ、いつもお世話になっている毎朝のZoomでの英会話ミーティングを楽しんだりできるようになった。毎朝のそのミーティングについて、ぼくはほんとうに感謝している。毎日面白い話題を見つけたり、具体的に場所を開けたりする方々の東奔西走(はちがうかな? なんにせよすさまじい情熱)がなければ可能になるはずがない。足を向けて眠れない、とはこのことだ。いつもありがとうございます。

今朝、仕事をしつつこんなことを考えていた。ぼくが実際の自分の等身大のサイズを把握し、そして受容できるようになったのはいつぐらいからだったかということだ。いま、こんなことを書いていてわれながら自分の屁理屈グセに嫌気が差すが、日記の性格上起こったこと(そして誰にも迷惑にならないこと)を書かないと意味がないのでこのまま書くことにしたい。ともあれ、そんなことを考えたのはぼくがいまにいたるもなお畏敬の念を以て接してきたバンドの1つであるU2の曲を思い出していて、その歌詞に「Too Much is Not Enough(たっぷりあるってことは満足できないってこと)」というような1行があることに思い至ったからかなと思う。アルコール依存症者として、ぼくはこの1行に共感しこんなことをシンプルに歌詞に乗せられるU2のセンスにそれこそ背筋が凍る思いすらする。アルコールを断ってからも、ほんとうの自分自身(つまり、いまネットで言われているところの「キモくて金もない中年男」である自分)と折り合いをつけるのはむずかしい。ぼくはカンペキではない。きわめて限られた可能性をそれなりの規模で持っている、というのが事実だろう。そんなものだ。でも、それでもぼくの中には欲というものがある。具体的に・卑近に書けば、それこそ金の匂いのすることやチャーミングな本や、あるいはきれいな女性にフェティッシュに惹かれてしまう。

あれはいつだったか……たしかデヴィッド・フィンチャーのすばらしい映画『セブン』の影響だったか、「七つの大罪」について学んだことを思い出せる。人が持ちうる原罪について。その中に、貪欲というか強欲というかとにかく欲望に関する罪というのがあったはずだ。手持ちのもので満足せず、満たしても満たしても次から次へ湧いてくる・際限なき欲を満たすために他人の権利さえ侵害して奪ったりする罪というもの(なんというか、ドストエフスキー罪と罰』みたいな……は違ったか。いい加減なうろ覚えで書くものではないですね)。なんにせよ、呑まれていた頃を思い出すと埋めても埋めても満足しきれない欲を埋めようとあがいて虚しさ・無意味さにそれこそ「もういやだ」「うんざりだ」と思うことは身に覚えがある(ありすぎるほどある)。自分の手持ちの宝物(ぼくの部屋にある本とか服とか、あるいは頭の中にあるゴチャゴチャしたトリビア)でどうやったら満足できるか。そんなことを考え込んでしまった。

ぼくの中には、そんな深刻な物質的なというか現世的な欲もしくは嫉妬(つまり、50にならんとするいまでもなおぼくの中にある「金持ち」への偏見とか嫉妬とか。彼ら・彼女たちだって賢かったり努力していたりするはずなのに)があり、同時に終わらない・満たしようのないスピリチュアルな嫉妬がある。英語においてぼくより流暢な人(いまで言うところの「コミュ力」「コミュニケーション・スキル」がすぐれている人)や、あるいはもっとハンサムでモテモテだったり、若くして成功をおさめていたりといった人たちに対して、それこそ身も焦がれんほどの嫉妬で悶えることだってある。ほんとうの自分と折り合いをつけて、「ま、いっか」「そんなもんだ」といなすことがなんとむずかしいことか。だけど、たとえば40の歳(10年前)に英語を学びなおすことを自分なりに腹をくくって(といっても実情としてはきわめて軽く「いっちょやってみっか」的な次元のはじまりだったのだけど、なんにせよそう決意して)、ぼくは自分の英語力を磨いたことを思い出したりもする。当初はぼくの英語ときたらほんとうにおそ松さんで、どんな場に出ても(相手が「日本語でもOKですよ」と助け舟を出してくださったとしても)ヘタレな弱虫ぶりを晒すのみで文字どおり「置き物」になってしまっていたのだった。だが、慣れというのは怖いもの。いつしか度胸もついて、自分の英語にも信頼を置けるようになった。もちろん完全無欠ではないにせよ、だ。そんな事実をいま一度思い返してしまう。それもまた人生の醍醐味かな、と。