それはそうと、時にぼくのところにこんな質問が寄せられることがある。英語学習をはじめるにはどうしたらいいか(ぼくのように学びつづけてしゃべれるようになりたい、という理由からだ)。質問に答えて、彼らにアドバイスをしたためたり話したりする。たとえば、SNS(ソーシャルメディア)を使って英語で投稿をするのはどうかといったこと。いまはTwitterやLINE、ぼくがお世話になっているDiscord(はSNSではないかな)などまさによりどりみどりで合ったものを使っていけばいい。あるいは、ぼくがやっている英語メモや英語日記などを薦めたり通っている英会話教室のことを教えたりもする。だが、彼らはありがとうと言ってくれるのだけど、でも尻込みしてしまってやらないということも往々にしてあるのだった。
こうして上に書いた2つのことがらは、実はぼくの中では「同じハコ」の中のことがらというか、つながっていることがらのように感じられる。いや、人のことをあれこれ言うのは趣味ではないのでまずぼくのことを書くなら、ぼくだって同じ穴のムジナで「(心の底から)やりたいこと」「してみたいこと」はいろいろあるのにぼくの中の弱さというか臆病さが足を止めさせ、結局なにもできないままでいてしまうのだった。ならば、いったいどんな言葉やアクションがアドバイスや解決策として働きうるのだろうか。今朝、仕事中にそんなことをあれこれ考え込んでしまった。せせら笑われそうだが、でもいまのぼくは少なくとも過去よりはそれなりに腹というか肝が鍛えられたかな、とは思う(もちろん「それなりに」です)。いま、ぼくは「やりたいこと」として英語学習にいそしめている。どうやってそんな感じで「はじめる」ことができ、こんな大胆不敵というかそこそこ自信ある人間になれたのだろう。
それは実はわからないのだけれど、でもたぶん理由としては英語学習などをとおして他の人たちと(とくにぼくの友人たちと)つたない英語や日本語を使ってコミュニケーションに親しむ中で鍛えられたのかなあ、とは思う。いや、ぼくはもちろん「強者」ではありえない。一時期、宮台真司なんかを誤読した影響で「コミュニケーション・スキル」とかなんとかいったよくわからないものを鍛えて、「自己イメージ」をも刷新して生まれ変われればとあがいたこともあったっけ。ザ・スミスの歌にもあるが、「シャイネス(恥じらい)はナイスな要素だ」という考え方だってあるのでそれなりに大胆になってしまったことでなくしたものだってあるのだろうけれど。発達障害者として、ぼくはそれこそ残酷な言葉を浴びせられて生きてきたのでそれがいまでも足かせとなってやりたいこと(性的なこと・将来の夢・恋・その他もろもろ)をあきらめさせているかなと思うこともある。心がずたずたに切り裂かれている、というか。でも、なにはともあれいまはいま。ぼくはいまはそれなりにやりたいことをやれている。ただ、「この地点」から過去の自分のような人たちに「やりたいことをやれ(あなたならできる)」と「御高説」をぶつのも違うように思う。どうしたら伝わりうるのか。たぶんぼくにとって永遠のテーマの1つだ。
夜になり、毎週恒例の友だちとのZoomミーティングに゙参加する。今回、ぼくたちはフリートークを楽しむこととなった。あるぼくたちの共通の友だちがある賞を受賞するという栄誉に輝いたので、その方のたゆまぬ努力がいかに素晴らしいものであったかそのことを話し合った(上に書いたこと、その人に質問してみるのもいいかなと思った)。「したいことをしなさい」「なんでもやりたいことを続けなさい」「自分を信じなさい」といったことはもちろん理屈としては非の打ちどころがないほど正しい(正しすぎる)。でも、少なくともぼくの場合は実際のところ「第一歩」を踏み出すのがもっともむずかしくて、いったいどこから手を付けてどうしたらいいのかわからず五里霧中というか暗中模索だったことを思い出せる。みんなが通る道、と言ってしまえばそれまでのことだ。でも、偽善的かもしれないがぼくはせめて過去、自分がどんなに弱っちい・軟弱な人間だったかを覚えておきたいとも思っている。いや、いまだって充分弱っちいのだが。