この日記でも折に触れて書いてきたとおり、さいきんぼくは(これもなんだかわからないのだけれど、これもまた加齢のせいか)こんな感じで「弱者男性(モテなくて、金にもステータスにもめぐまれていない『キモい』『おっさん』とされる男性のこととぼくは受け取る)」のことをあれこれ考えている。というのはぼくはまぎれもなくそんな「弱者男性」だからだ(ちなみに海外でもこんなカテゴリーの男性が存在し、『インセル』と呼ばれているのだとか)。このコンパクトだが実にピリリと辛い・スパイシーな中にリキの入った本を読んでしばし言葉を失い、それこそめまいにも似た混乱にとらわれる。いまや夜は多様性の時代。セクシャリティのかたちも人それぞれで異性愛・同性愛・パンセクシュアルにアセクシャルとさまざまな、個々人の欲望に応じたきめ細やかなフォームを楽しめる。それはすなわち、個々人のかけがえのない欲望がそのまま・社会が要請する「ジェンダーロール」より優先されてかなえられるようになった、ということなのかなと思う。
愛について、そしてもっと「アダルトな」関係性についてあれこれ考えていくと、基本的なポイントに立ち返らざるをえない。というのは、ぼくは男性であるしそこから出られないという事実だ(性転換するつもりはないが、したとしてももともと培われた「男性的」価値観からついに自由になることはおそらくきわめてむずかしいだろう)。それがどこから来ているかというとこのなんというか実にむさくるしい肉体、とりわけぼくの股間に位置し脈打つ器官に由来する(さすがにおおっぴらには書けない。察してください)。「それ」はぼくを突き動かし、男としてぼく自身を「乗っ取る」「コントロールする」勢いで自己主張する。いやもちろんぼくは動物ではなく人間であって、女性のみならず他人に対してはジェントルに振る舞いたいとも思うし可能なだけ理性的に・論理的に考えたいと思うけれど「それ」が時に脳の中のそうしたこざかしさをぶっ飛ばす勢いで暴走するのは避けがたい。言い換えればそうした「動物的」「粗野」な要素抜きにぼくはフェミニズムや愛そのものについて考えることはできない。つまり、ぼくがフェミニズムや愛を考える際はどうしたって理屈をレゴブロックのように客観的に組み立てるのではなく、きわめて「ダサい」肉体の限界、このおならだってうんこだってする肉体を抜きには考えられない。
この男臭い・マッチョな(そしてそれこそ「醜悪な」?)器官以外にも、これは上述した杉田俊介の著書の受け売りでしかなくなるが、たとえば鏡を見たらぼくはそこに実にブサイクでそれこそ「キモい」男がいることに気付かされる。なんら栄冠を達成させたわけでもなく、社会的にエラくもなく金とも無縁な初老の男。だが、そんなぼく自身の惨めったらしい・ダサい事実を認めるのはむずかしいにしてもともかくも途中酒びたりになったりしてエラいことになりつつよくぞ生き延びたものだと「承認」「赦す」べきなのかなあ、と考える。
ならば、そんな「弱者男性」たるぼく自身の中にいったいどんなアイデンティティがありえるんだろうか。上に書いてきたようにぼくは男性であり、したがってこの性ゆえにいまなお男性優位な風潮がかくじつに残る社会では「男性特権」を享受していることはわかる(いや、わかったつもりのままかもしれない。これから虚心坦懐に学んでいかねば)。だが、言いたいこととしてこの「MeToo」時代であっても男くさく・マッチョに生きることはとてもつらいことでそれこそ心身をむしばむという事実だ。ぼくだって何度も何度もそんなマチズモに適応しようとしてできなかったのだから。ほかにも発達障害のこと、日本人であること、英語学習者であることなどのアイデンティティの要素がある。だから、ぼくとはつまり混乱したカオスのかたまりなのかなとも思う。何度も言い古されたことになるが、そんなものなんだろうと思う。完全に統一された・一枚岩の自己を追い求めることは端的に現実的ではないのかな、と。